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ジェンダー論 映画

『リップヴァンウィンクルの花嫁』と「(?)」〜七海が出会う相手の属性について〜

投稿日:2023年5月24日 更新日:

『リップヴァンウィンクルの花嫁』と「(?)」〜七海が出会う相手の属性について〜

※本稿は、メモ程度のものであり、裏取りや詳しい検証、検討はしていません。各自お願いします。またネタバレ配慮もしていません。

『リップヴァンウィンクルの花嫁』には、色々な考察要素がある。SNS問題や「交換と贈与」の話は宮台真司に任せよう(『正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く』)。

 ここでは、少し違う点について述べる。つまり、――『リップヴァンウィンクルの花嫁』で、七海がSNSで知り合った鶴岡鉄也から離れたあと、そこで出会ったのは、真白という女性であった。真白の役割は男性でも良かったのであろうか、――ということである。

 私は、一つには、岩井俊二のフェティシズムが関係していると考えていた。『花とアリス』の存在があったからである(私は見ていない)。つまり、いわゆる日本でいう「百合」といわれるような形式でコンテンツ消費される女性同士の関係性に思い入れがあるのではないかと。実際、真白と七海の戯れは極端に美しく、幻想的に長い尺をもって描かれる。

 次に、少し違う視点から見てみよう。いわゆる、「百合」「GL」的文脈から女性同士の性愛関係をコンテンツ化したものは、国内外問わず今日多くある。例えば、『Gap: The Series』は、2022年のタイの作品だが、「Gap is Thailand’s first girl love series. Due to its immense popularity, the series is considered as paving the way for the GL genre. It surpassed 300 million views on YouTube in just 3 months.」(wikipedia)とされる。Youtube等でGAPの舞台版みたいなものを見ると(https://www.youtube.com/watch?v=Sd6QvVXPXxs&list=PL2ZN7iey-IhvKJ8Wbfjp1UTy8UrC3MckN)、女性観客からの黄色い声援が凄まじい。日本でも「百合」作品は、例を挙げるまでもなく、多くある(近年は地上波アニメでも見かけることが少なくない)。「BL」同様、ひとつのジャンルとして確立している。欧米圏でも近年特に女性同士の性愛を描く作品は多く、なおかつそこではヘテロ的な作品を避け、レズビアンを描いた作品を偏愛している層もできつつあるように思う。

 私は、「GL」が消費されるときには、単なるフェティシズムに加え、「男性性からの解放・逃走・救済」が、あるように思う。GL作品において、例えば、男性の暴力性が露悪的に描かれたり、父権の構造的暴力が描写されたりした後、そこから解放されるように、女性同士で信愛関係が幻想的に描かれるのである(GLではないだろうが、ウーマンリブと『Thelma & Louise (テルマ&ルイーズ)』を巡っての問題を想起せよ)。

(なお、レズビアン、ゲイをモチーフとした作品群と「百合」「BL」的なものとの違いについてはここでは詳細しないが、より消費者のフェティシズムのフックに引っ掛かりやすいように設計されたものが後者に近くなるのだと考える)

 そもそも、レズビアン概念についても、少し考察が必要だ。アドリエンヌ・リッチが女性同士の関係を広く「レズビアン連続体」と表現したように、女性同士の友情から性愛にかけては、シームレスに捉えることが可能とする見方がある。これは、男性間で展開される「ホモソーシャル」(乃至ホモフォビア)と対照的に捉えられる。つまり、男性コミュニティでは、例えば男子校で「ホモ」はいじめの対象となり、「ホモ」や「女」を排除することで、仲間意識を強力にするという営みが見られるのに対し、女子校では、疑似恋愛関係が構築されたり、あるいは、一般社会でも女性同士が手をつないだり(インドでは男性同士も手を繋いで歩くことがあるらしいが)、たしかに、性愛的な愛情と友情とが連続した線上に存在するようにも思われる(男娼で見られるような男性間での機会的同性愛をどう位置付けるかは個人的に課題である)。

 アメリカでは、「19世紀後半に頂点に達した女性同士の「ロマンティックな友情」が存在した。未婚の女性同士の激しい友情をあらわしたが、19世紀中ごろから設立された女子大学により女性の経済的自立がなると女性同士の世帯が登場し、男性との結婚によって中断する必要がなくなったのである。保守的な富裕層や教育を受けられない貧困層とは対照的に、職に就くことが少なくなかった中産階級の女性は女性同士の愛が普通とされる社会で育った。東海岸では「ボストンマリッジ」と呼ばれ、ジェーン・アダムス、M・キャリー・トーマスと言った有名な女性運動家も女性同士で暮らした。もっとも性科学が登場したばかりの当時、自らをレズビアンと認識するものはいなかった。徐々に広まりつつあった性科学は第一次世界大戦が終わってからアメリカでも常識化し、「ロマンティックな友情」で済まされていた関係をレズビアンとして一般女性から切り離し、フェミニストも含めて「性倒錯」「男の心をもっている」「古い母権制社会への退行者」などと非難し始めた。この新見解は女性たちの間に大混乱をもたらしたが、これを機に自らを神や自然によって運命付けられたレズビアンとして認識し、コミュニティーを作り同性愛に対する刑罰に挑戦する女性も現れた」(wikipedia、『レズビアンの歴史』リリアン フェダマン著 富岡明美 原美奈子 訳 筑摩書房 1996年)。

 さらに、トレバー・ノアの「男性たちにも、“信愛の情”が必要」であるという主張が、最近日本のtwitterでもバズっていた。これは、女性間では「信愛の情」(これは「ロマンティックな友情」(リリアン・フェダマン)と近い概念であろう)が存在しているということを前提に、例えば、「風俗を利用する男性が、性行為ではなくただハグを求めたりする事例が多い」ということを引き合いに出し、「私たち男性は、男性同士で信愛の情を表現したり、労わる優しさを見せたり、共感し合ったり、互いの弱みを見せ合い、かばい合うことを“負け”とする社会を作ってしまった。男性同士が『好きだ』と友愛を伝え合うことは恥だとする社会にしてしまった。相手を支配下に置き、優位に立つことが、何よりも優先すべきことだと。だから“弱いものいじめ”が起きてしまうのです。もうそろそろ、この従来のあり方に終止符を打っても良いのではないでしょうか?現在、世界にはダイナミックな変化が起きています。私は、全てのジェンダーが生きるこの社会に、今すぐにでもポジティブな変化が起きることを期待せずにはいられません」と述べるものである(https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/celebrities-driving-social-change-trevor-noah)。トレバー・ノアの主張は「レズビアン連続体」(あるいは「ロマンティックな友情」)と「ホモソーシャル:ホモフォビア」との対比で語ることができるだろう。

 フェミニズムやウーマンリブと、レズビアン(あるいはそれのコンテンツ化したもの)の関係は、もう少し検討の余地があろう。また、日本でのいわゆる「百合」的コンテンツ消費は、フェミニズム的な流れとは無関係に生じたようにも思われるので、ここにも検討すべき余地があろう(もっとも、『作りたい女と食べたい女』にも見られるように、女性同士の物語の中で、「男性性」あるいは「父権」への強い非難が描かれることは多いので、後天的な接合は強いように思われる)。

 さて、大分話が逸れたが、『リップヴァンウィンクルの花嫁』で七海が出会ったのが、仮に男性であったとすると、結局相も変わらず「男性性」に付随して振り回される女性、として見えてしまうような気もする。一つ目(鶴岡鉄也)と二つ目の出会いの違いを強調するためには、女性の真白が登場する必要があったような気もする。さらに、先述した「信愛」概念が示す通り、七海と真白の関係が単なる「性愛」に収斂しないような気配りと捉えることもできそうだ。いずれにせよ、七海が出会ったのが女性であることによって作品として少なくない効果を持ったように思う。

 ここで、「百合」的なものについて附言すると、やはりこれにはフェティシズムが大いに貫入するものであるとともに(BLと同じ)、女性同士の性愛(信愛)関係に幻想を抱いているともいうべき、「仮託」が存在するというべきであろう。「仮託」の一例は、男性性からの解放である。

 また、BLはもっと考察の余地がありそうだし、ここにもなにかしらフェティシズムとは異物の「仮託」が存在するような予感はある。要検討だ(BLとは別だが、『ブロークバック・マウンテン』は良かった)。

 最後に、「BL」や「百合」に対し、主に「アンチフェミニズム的」な立場から、「お前らは性愛表現をポリコレを盾に弾圧するのに、BLに関してはなんもいわねえのか」みたいな批判が向けられることがあるが、これは正しくない批判だと思う。異性愛はありとあらゆるものがコンテンツ化されているのであるから、同性愛が同じようにコンテンツ化されるのは当然の流れであろうから。ヘテロもホモも同じように商品化され消費されるのであって、現状バランスが悪いようには思わない。もっとも、これからどうなるのかは分からぬが。

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