嫌悪感の表明と批判
嫌悪感の表明と批判
りくりゅうがなんだかとテレビの音声やトレンド欄が宣伝してくるのに嫌悪感を抱く。そういった嫌悪感に対する個人的な反応はいつもと同じで批評的な批判criticの形式を装い、公共的な批判として欺罔しようとするのである。例えば、底の浅いヘテロな感性が云々と。
建前的な規範の教育が有用であるのは(何に有用であるのかはおいておくとして)、それがストッパーとして働くからである。例えばマイノリティーに対する憎悪を感じたとしても、それへの表現に躊躇する。これも規範による統制的な働きである。あるいは、メディア表現の一々が気に入らないとしてもそれに対する批判を躊躇する。この場合、躊躇するのは、マジョリティーがそのメディア表現を受け入れているだろうと考えられ、むしろそのメディア表現に違和感を覚える自己が特殊なのであろうと分析するからである。ここでは批判の正当性の要素として、一定の公共性や普遍性を想定しているのである。その自己分析に至り、つまり、自分の抱く嫌悪感は公共性や普遍性を備えていないと自己分析するのに至って、私は、”批判”ではなく”単なく嫌悪感の表明”をすることになる。批判は合目的的に位置づけることが可能であるが、ここにいう嫌悪感の表明は少なくとも対外的な目的を備えたものではない。よって、ここにいう嫌悪感の表明は単なる憂さ晴らしのためか、あるいは衝動的に表出したものにすぎない。しかし、普遍的な規範など存在しないという相対主義の観点に立てば、公共的な批判などというものも、確信をもっただけの誤謬の規範であり、その意味ではすべての批判は個人的な嫌悪感の表面と理屈付けにすぎない。好悪の表現が蓄積され多数者の支持を得て、その理屈付けが一定程度緻密になるとそれが規範とよばれるようになるのである。

