昨日、菊地夏野先生の新聞記事https://digital.asahi.com/articles/ASQ7F3
PXWQ79UTIL02L.html でリーンイン批判の論理を知り、Dawn Fosterのリーンアウト主張の記事(https://courrier.jp/news/archives/98607/ )を読んで、その中に以下の記述があった。
・インタビュアー
そうした差別と直接に関係してない人も含め、私たちみんながリーン・アウトするためにできることはあるのでしょうか?
・フォスター
最大の支援は人々の窮状に関心を寄せ、話を聞くことでしょうね。また、自分が日ごろやっていることについてもじっくりと考えるべきです。
たとえば、私の講演にやってきてくれるような男性は、男女が会議に同席すると、女性を押しのけて話す男性が多いこと、女性の意見が認められることがほとんどないことに気がついています。
そのため、女性がもっと発言できるように会議で配慮している男性を私はたくさん知っています。
この主張の正当性については疑義もあろうが、ひとまず自分のことを振り返った。私は講義やミーティングで、まさに他人を押し退けて発言しイニシアチブを取りに行くことが多く日頃から反省することが多かったのだが、昨日この記事を読み再反省した。
しかし、今日あった講義において、半ば無意識、しかし半ば意識的に、私は何度も発言し結果的に他の受講者の発言機会は減ることとなっていた。
一つには私のエゴイズムが関係しているように思うが、しかし、他面において、当該講義の参加者の参加意欲の低さを考えるに、私が仮に発言しなかったとしても、そのまま誰も発言せずに終了してしまうのみに思えるのである(現にそういうことが多々あった)。もっとも、それは私が、講義の初めの頃の回からの積み重ねにより、「発言する人」として他の参加者から認識されてしまっているということも影響しているだろう。これは、参加者の参加意欲の高くない「議論の場」において、如何にして主導権を他者に渡しながら、議論を促進させることができるのか、という困難を知る機会になった。
フェミニズムの話に戻ると、確かに私は「男性性」の下、ある種社会的に許された、あるいは期待に反することとはならない「傍若無人」様の振る舞いにおいて、直裁的に発言したりリーダーシップをとることができるのであるが、社会から「お淑やかさ」を期待され、あるいは自らのジェンダー感によって「控えめ」を演じながら居る彼女らにとっては、私は、その先に開かれた発言可能性あるいはリーダーシップの発揮可能性を閉ざしてしまう存在となっているだろう。
私は「意義のある講義」や、「時間効率性の高い会議」という目的の名の下に、自分が先んじることを許していたのであるが、このような効率主義、発展主義の思想こそが、リーンアウトの批判するところなのだろう。斎藤幸平先生の脱成長が経済を主眼にするものだとすると、フェミニズムのリーンアウトは、社会様式・規範の脱成長といえるか。オーバーラップする箇所も多いと思うが、その主義への立脚理由や到達目標は基本的に異なる。
意義のない講義、効率の悪い会議、というのを我慢するのが方法論的には正しいのかもしれない。男性性、その徴表としての積極的な「男並み女性」を期待するような思考を批判するのがリーンアウト、かな。最近知った概念・理論であるので、ちゃんと勉強せねばならぬ。しかし直感的にはリーンインよりずっと壮大で理論的に複雑であり、おもしろい。