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ジェンダー論 書評

感想『私の身体を生きる』 | 西加奈子, 村田沙耶香, 金原ひとみ, 島本理生, 藤野可織, 鈴木涼美, 千早茜, 朝吹真理子, エリイ, 能町みね子, 李琴峰, 山下紘加, 鳥飼茜, 柴崎友香, 宇佐見りん, 藤原麻里菜, 児玉雨子 |

投稿日:2024年9月23日 更新日:

感想『私の身体を生きる』 | 西加奈子, 村田沙耶香, 金原ひとみ, 島本理生, 藤野可織, 鈴木涼美, 千早茜, 朝吹真理子, エリイ, 能町みね子, 李琴峰, 山下紘加, 鳥飼茜, 柴崎友香, 宇佐見りん, 藤原麻里菜, 児玉雨子 |

読んだ。KINDLE版なので、引用箇所に頁数は記載しない。

感想

ブラボー。作家陣の文章は、面白かった。日本の文学界の可能性を感じた。

島本 理生
「私には十代のときから生理の記憶がほとんどなく」(引用)とは、どういうことだろうか。生理は体験していたが、しかしその記憶が欠落していたということだろうか。
「付き合っていた男の子から、一度、言われたことがある。」「同意の上でセックスしているのに対価のように言うときがあると。」(引用)。これはたしかに、面白い。男性側の褒賞のようなセックスの不思議である。

村田沙耶香     村田沙耶香の話なんやねん。王国の話の辺りから、全く違う問題になっているだろう。王国の話をもっと聞きたい。

日本は文学は衰退していないのかもしれない。映画と違って。どの文章もいきいきとしている。
文学者たちの文章の精緻さに驚かされる。やはり優れた観察者は、学問が提供できない補助線を引いてくれる。
また、驚いたのは、彼女たちの文章が、全く規範的ではないことである。現代の哲学の動向を、しっかりと踏まえているような気さえしてくる。不思議である。

藤野可織。よかった。村田〜金原にかけては、文学的な怒涛の波で力を見せつけられた感じだ。
藤野の文章も重く、リアルである。ラディカル・フェミニズムよりはリベラル・フェミニズムという感じがする。読んでいてすかっとするものではなく、現実の中で、重みが読み手自体を抑圧してくるような感覚がある。ただ、この重みが快感になると、それは感動ポルノや退廃の美学に近づいたりもするのだ。浅田彰がフランシス・ベーコンは、徹底的な救いのなさがよいのだ、というようなことを言っていたが、まさにそんな感じに近づくこともあるのだ。
現代女性の生きかたとして、神に頼るか、マイノリティの積極的なラベリングの中に生きるか、それとも保守的世界観に帰依するか、退廃の美学に耽溺するか、それともどこか別方向を向くのか、目の前の出来事に向かい問題を棚上げするのか。

西加奈子。いってみれば、私の十八番の論点である。性被害者の主体性と「被害者らしくないこと」の困難性についての微妙なニュアンスには、NetFlixのシリーズ『Unbelievable』(2019)が傑作で見事に描いている(しかし、レイプシーンがかなり苛烈に描かれるため、耐性がある人以外は見ない方がいいだろう)。

鈴木涼美。宮台真司と何回か共演していたな。彼女はサイコロジカルな、あるいは社会学的な問題を、個人的な領域で語るのだが、私には、それが普遍性をもつのかどうかわからない。

金原ひとみ、素晴らしいね。文学の世界では、こんな表現が未だ許されているのかということにも衝撃。レイプの経験によってより高みに向かう、あるいはよりまともになるというアイデアは、ロウ・イエの『パリ、ただよう花』でも投げかけられていた主題だ。学問の世界は、ずっと窮屈なポリティカル・コレクトネスの縛りに制限されている。まあ、しかし、それが、学問のあり方として正しいのかもしれない。たとえば女性学で主流となった学説を書き手の信条は抜きで、自らの領域に適用する。その乾いた謙虚さも、単にくだらない意味のないものではないだろう。しかし、金原ひとみ。侮っていた。

千早茜。なんと牧歌的で「可愛いらしい」物語の発出だろうか。ある傾向にブリンカーを付けた競走馬のような視野で爆進しつつあったエッセーたちの流れに、世界の他の領域のことを思い出させてくれるような気がした。しかし、読み進めると、その牧歌的に見えた少女の悩みが、いかに巨大で恐怖に満ち、切実なものなのかが開陳されてきたのであった。しかし、読み終えると、それがまた牧歌的で「可愛らしい」悩みに見えてくるのである。

ところで、書き手たちの年齢が非常に近いのが気になる。なにかの示唆になりえるだろうか。

朝吹真理子。ここでも、文学のポリコレからの自由度に驚かされる。ここで何気なく自然に落とされる「レイプされる話が読みたい」というチャンクなどは表象文化論の文脈で書くのならば、半ページぐらい、言い訳じみた解説に使う必要があるのではなかろうか。最近、文学の作家の文章は読んでいなかったので、良い発見である。文学の世界は浮世離れしていると思っていたのであるが、それがいい方向に機能しているのかもしれない。たしかに、一定の知能指数以下の層を排除したある種のゲーテットコミュニティーが維持できるのかもしれない。森茉莉読んだことないので読みたい。

村田沙耶香も朝吹も、自慰を早い時期(果たして統計的に早いのだろうか?)に体験している1。文学的な感性に耽溺できる人は、性愛に関しても、より深く楽しめるとかなんとか、そんな話は聞いたことがあると思い出した。実証できるのかどうか知らんが。それから、男性のオーガズムは”点”なのに対して、女性のオーガズムは”線分”や”波”に近い。彼女らの自慰行為の描写がひどく、なごやかなこと、そして、気楽にたのしめるもの、幼少期から楽しめるものとして描かれるのは、それが関係しているかもしれない。

朝吹が、子供ができる過程を知ったのは小学5、6年だったとしているが、私は小学校3,4年の頃に、キスで子供ができると思っていた友達を皆で爆笑しながらクソミソに弄ったのを覚えている。ただ、自分がその知識を知ったきっかけは覚えていない。

ところで、男というものは呑気な生き物である。全く、性愛に関して向き合わざるを得ない契機がないのである。痴漢も強姦もされないし、性別を理由にした「いじり」も揶揄もなく、セクハラもされないのである。女性が女性であることを絶えず実感せずにはいられないのと対照的に、男性は男性であることを意識もしないのである。

朝吹の文章は、BL論としても優れている。

エリイ。作家陣に、タトゥーをしている人が多いような気がする。

能町みね子
「美女美男」という言葉の使い方。
そういえば、能町みね子が出生時の性別が男性ということを、テキストで示されるまで忘れていた(強調すべきでもないだろうか)。単にぼんやりと女性として、私の頭の中にカテゴライズされていた。
「しょうもない性教育」:中学にもあまり行っておらず、高校にも行っていないせいか、それとも私の記憶障害のせいか、性教育を受けた記憶がない。
不思議な夢精:能町のイメージはおもしろい。私は自分の精通について記憶がない。
マスターベーションの開始が20歳直前という人もいるのかと驚き。

いや、しかしTERFについての能町の論考は、ただの否定神学ではないかなどと、法学等の思考方法で制度設計についてよく考える私は思う。沈黙できない仕事もあるのだ。勿論、そういう仕事の人以外が沈黙することは、別に問題ないように思うから、能町に対しての有効な批判にはならないけれど。

李琴峰
北方謙三もびっくりの風俗レポから始まるかと思いきや、SM嬢のデリヘルか。どうだろうか。たとえばジェンダー論研究者は、買春を告白しても放逐されずにやっていけるだろうか。作家は自由だなと思うのは、本書で何度目か。

   −−−−−−男=縛り手/打ち手/S」「女=受け手/M」という図式が圧倒的に多い。SM関係の縁でくっついたカップルをたくさん見てきたが、「S男+M女」の組み合わせが圧倒的絶対多数で、稀に「S女+M男」のパターンも見られた。(引用)−−−−−− 
 
そうなのか!逆かと思っていた。さまざまな場面で表象される典型的なSMは、S女+M男ではなかろうか。現実と表象で反転が生じているということか。

 SMが性愛との関係性、とりわけ、それが遊離している場合と、融和している場合などについては考えていなかった。
 ところで、全くSM的感性を持っていない人も多いだろうし、その人たちには適用不可能な個別的事情の記述にどれだけ意味があるのだろうかとも、一瞬頭に浮かんだ。しかし、例えば、「性愛」についても、共感できない人もいるだろうし、その「共感できなさ」の共感をもとめているマイノリティもいるだろう。思えば、私は、「性」はべつにしても、「愛」「恋」については、殆ど、昔から共感できない。そういう人も一定数いるかもしれないし、そういった個別的集団についての記述は、当該個別的集団のメンバーにとって救いとなるし、あるいは、もっと一般的な人間の性質の記述の、思わぬ点に光をあてるかもしれない。そういった意味で、一見辺鄙なマイノリティの記述は意義はあるのだろう。

李琴峰の極めて身体的でプリミティブなマゾヒズムの説明は、明瞭としていて心地よい。このテキストを読んで、李琴峰を誤解する人は少ないのではなかろうか。勿論、それが、遺伝由来であるか、環境依存であるかどうかとか、そのメカニズムについては、別の専門的な議論が必要だとは思うが。いずれにしても、世間のフレームワークからのズレをしっかりと明確にしようとする態度が心地よい。細かなニュアンスを諦めないことが学問的な探究においても重要だ。

     −−−−−−要するにこういうことだろう。現実の人間の欲求は極めて多種多様にして千差万別で、簡単にカテゴライズすることができない。にもかかわらず、法律や制度、政治、行政、そして社会そのものがどこまでも硬直していて想像力に欠け、人間の多様性にまるで追いついていないということだ。(引用)−−−−−

 ここには異論がある。少なくとも法学は、その問題に必ずしも盲目であったわけでも想像力に欠けていたわけでもない。十分に想像して観察し、その上で”敢えて”手をつけていない部分が多いというのが実際だろう。例えば家族法では常に議論されていることだ。つまり、どこまで網の目を細かくするのが法として相応しいのか、どこまで具体的妥当性をあげるか、それとの関係でどこまで法的安定性を担保するかという、立法論の一大テーマである。細かければよいわけではないし、変化しやすければいいわけではないのである。性愛関係を法律婚として制度化することが、逆に現実の関係性の硬直化と単純化をもたらすようにである。

山下紘加
最後のマッサージの話。おもしろいし示唆的だ。何かを示しているような気がする。そして、女版ホモソーシャルの報告も今まで読んだりしたことがなかったので面白かった。男版ホモソーシャルの記述は溢れているのだが。

鳥飼茜
 −−−−−−性的な場面になると、視点はこれまで通り男側にあろうとし、相手の男の運転席に無理やり同席するような形で自分の女型の体を消費し興奮を得るという、複雑すぎる方式を採用することとなった。(引用)−−−−−−

 面白い。女性が、女性の身体を消費する男性目線の構造を内面化し、そのまま性行為を楽しもうとすると、ある種の、ここの記されたような帰結に至る場合があるのか。ある意味で単純すぎるほど自然なことのようにも思う。

ところで、「私の身体を生きる」というタイトルだが、性愛も混ぜて語ってくれという発注だったのだろうか。昔から性愛に共感できなかった私のような人間にとっては、少々、疲れてくる。なぜ君たちは性愛に夢中なのだろうか。繰り返すが、そういう発注があったならしょうがないけれど。

−−−−−−そのような人は、性的なシーンにおいても主体的に身体を本体がコントロールできているのだろうか。またはコントロールなんてハナから手放しているのか。ぜひ、機会があったら聞いてみたい。(引用)−−−−−

私は死ぬのが怖くない「そのような人」であると自認するが、性的なシーンに突入することが皆無なので、答えられない。

ところで、鳥飼が何を悩んでいるのか、よくわからなかった。

柴崎友香。すごく素朴な感覚について素直に綴った文章でよい。彼女の本を読んで、もっと広い世代の文章が読めればいろいろ、他に気がつけることがあるだろうなと思った。まあ、本書のコンセプトのように、概ね近い世代の作家を集めてその微分係数をみせるというアイデアもこれはこれで良かったが。

宇佐見りん
 彼女が、芥川賞をとってネットニュースになっている頃だったか、同年生まれということもあるし、精神的活動に重きをおいていることもあり、それは永くホコリをかぶっていたジェラシーの感覚を自己のなかに探り出す作業の助けになった。野球の清宮には一切嫉妬しなかったのだけれど。ただ、私は、なんの創作活動もしていないので、そこに嫉妬心のような面影をわずかながら探せたのは不思議といえば不思議だった。

 彼女の文章は、今回初めて読むが、中学の頃から、平田オリザのワークショップかよ。笑ってしまった。文化資本問題ここに極まれり。多和田葉子が神保町の老舗書店の娘と知って、肩を落としたときの感覚と似ている。

 ところで、いや、嬉しかった。先に、次のように書いた。

「ところで、「体を生きる」というタイトルだが、性愛も混ぜて語ってくれという発注だったのだろうか。昔から性愛に共感できなかった私のような人間にとっては、少々、疲れてくる。なぜ君たちは性愛に夢中なのだろうか。繰り返すが、そういう発注があったならしょうがないけれど。」

しかし、やっとここで、性愛から、そして、この自分という中心から手を伸ばした半径85cmの範囲から出て、ずっと遠い、しかし遍満しているようなテーマ、例えば『死』を「身体」というテーマの中で描く文章に当たった。それが同年代生まれということは嬉しかった。まあ、この短い文章を読んだだけなので、彼女の傾向など分からないはずなのだが、宮台真司流の性愛離れの世代論の論証のロジックがバッググラウンドで再生された。瞬間的な偶然かもしれないのだけれど。

藤原麻里菜。職業が文章から透けている様は、読んでいてなにか嬉しくなる。「生殖器が私の身体にばっちり組み込まれてるからかな。テトリスだったらセックスしたときに消えそうだけど、そうもいかない。私の身体は消えない。」(引用)。おもしろい。

児玉雨子。「フィラメント」:いいな。私も文章で使ってみたい。


総評

 おもしろかった。やはり、作家陣はさすがだ。言語情報の効果の操作に貪欲である。

 しかしだ。これは私が文学を読まない理由でもあるのだが、この本のような文章に如何なる理由があるのかいつも疑問が生じてくるのである。

 Wissenschaftとしての積み上げがないところで、それぞれの表現を尽くしたとしても、それは、飲み屋で管を巻く親父とか、快楽だけが目的の自涜行為だとか、感動ポルノだとか、傷の舐め合いとか、対症療法とか、週末のシャワー(宮台)とか、そんなものと変わらないようにも毎回、思ってしまう。哲学や社会学の形式が有効であるかは分からないが、しかし、現段階で最も有効と思える形式でもって、反証可能性の中に身を置き、長い積み上げの営みに参加する方がよっぽど有用なのではなかろうかと思ったり(有用とはなんぞやという話はあるのだが)。

 文学とかエッセーはエンターテインメントであり心地よく、おもしろければよいのだともいえるだろう。

 あるいは、(小熊英二が『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』の序章で示唆していたように2)優れた観察者、表現者は、現実や本質を正確に描いたり、見えない補助線を引く力を持っているのだから、私は、表現者として文学的感性により表現し、将来誰かが、それを体系的に説明すればよい、とも言えるだろう。

 あるいは、限られた共有可能な人々の中だけで、証明されることはなくとも、真善美を追求できたらそれで満足なのだともいえるだろう。

 が、斯様な精緻なテキストを生み出す彼女たちが、もし哲学や社会学の言葉で語ったら、如何なるセンスオブワンダーを我々に与えてくれただろうかと、夢想せざるをえないのもまた確かではあるが。

 勿論、私自身、こんなぽやんとした文章を学としての形式をとらず、ぼやぼやと垂れ流しているのだから大きなことはいえないのだが。たしかに、学の枠組みに入れるのは、かなりの労力がいるのである。

あの感覚がもし「完璧に」再現されたと思える作品がこの世にひとつでもあれば、私にとって、小説を書く意味は、失われるかもしれない。それでいいと思える。」(本書引用)と宇佐美はいうが、宮台がよく引用するところのユングの命題、つまり「神秘体験は、神秘現象の存在を意味しない」という命題をどう理解しているのだろうか。神秘体験さえ経験できればよく、その現象の存在の共有可能性を追求してみたいとは思わないのだろうか。思えば、文学者というものは、総じてそういう生き物なのかもしれない。

繰り返すが、エンタメと考えれば、おもしろかったり、きもちよかったり、救いになったり、あるいは神秘が体験できさえすれば、それだけでいいのかもしれないけれど。あまり、人生をおもしろいか否かとか快不快の基準で生きていない私からすると、文学やエッセーに触れるたびに、同じ疑問にあたるのである。この意味ありげな文章にはなんの意味があるのだろうかと。にも関わらず、私も実証的ではないエッセーのようなものはよく書く。単に楽だから書いているのか。まあ、絵を描いているときのような心地よさは書いていてあるのかもしれないが。私の混乱のもとになっているは、文学作品が、真理の探究者のような顔をしているせいかもしれない。

 あるいは、文学・エッセーは、なにかをadvocateしたり、agitateしたりする機能があって、かつそれで十分なのだといえるかもしれない。まあ、いずれにしても、学問の振りをして、不可解なことを書き連ねる一時のフランス哲学とか(ソーカル事件のことだが)に比べれば、少なくともずっと無害なのだろう。彼女らは学者のふりはしているわけではないのだから。

 しかし、斯くも私は、快不快や、好悪の感覚を依然的なものとして享受する感覚を忘れてしまっている。そのような乾いた論理構造の地平にそそぐ流水として、たしかに、捨ててはならぬ領域かもしれない。文学的な感性というものは。

 まあ、敷衍しすぎたからそれはおいておくとしよう。本書は、そう、「おもしろかった」。

・参考情報

マスターベーション男女別の頻度については、統計がままでている。

https://www.jfpa.or.jp/pdf/sexservey2020/JexSexSurvey_p13-14.pdf
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000103.000010308.html
https://dime.jp/genre/1426825
https://www.tenga.co.jp/topics-archives/2018/05/28/6295

ところで、私は統計学に詳しくはないが、自己申告バイアスというものがあり(身長と体重が賃金に及ぼす影響 | 慶應義塾大学 パネルデータ設計・解析センター https://www.pdrc.keio.ac.jp/uploads/DP2009-010new.pdf 12頁以下などで説明)、それが、マスターベーションの回数の申告にも影響しているような気もする。その辺も考慮されているのだろうか。データの精査はしていない。

レイプ被害の割合。



  1. (20241001_13時頃追記)フロイトにも精神分析にも詳しくないが、男根期に関するwikipediaにか以下のような記述があった。「フロイトによればこの時期の小児性欲の中心は性器(ペニス・クリトリス)である。子供は自分の器官の性器としての役割を知り、男女の性的違いに気づいていく(精通がある、自慰をするなど)。この気付きには個々人によって、また男児と女児で発達に違いが出てくる。時期については諸説あるが、おおむね3歳から6歳頃までとされる。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E6%A0%B9%E6%9C%9F ) ↩︎
  2. 小熊英二『1968(上)』の言葉を借りれば、「言語化能力に優れた知識人に集合的心情が集約されているという解釈」(16頁)のような考え方である。 ↩︎

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