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「男→女」「女→男」「男→男」「女→女」類型による性被害の評価の差異化の正当性

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「男→女」「女→男」「男→男」「女→女」類型による性被害の評価の差異化の正当性


はじめに

 日本で、性犯罪規定の被害者に男性が組み込まれたのはつい最近であるし、社会意識的にも、性犯罪被害者である男性は、性犯罪被害者である女性よりも被害が軽いと認識される向きがあるように思う。
 大学の講義で聞いたが、「女(加害)→男(被害)」の類型の場合、被害男性が被害を打ち明けると、「よかったじゃん」「ご褒美じゃん」などと冷やかされることもあるようだ。
 また、「男→男」のような類型については、ホモフォビックな視点も向けられることがあると、ジェンダー論研究者の菊池夏野は指摘する1

 勿論、斯様な傾向は、ジェンダーバイアスに基づくもので訂正されなければならない、とリベラル的な視点で語ることはできるし、現実にそういう指摘が多いし、かつ、自分もそう思ってきた。しかし、直感として、「男→女」類型の性犯罪の罪がとりわけ重く感じられる、あるいは被害が大きく感じられることを、単なる時代遅れのジェンダーバイアスという以外の理由で記述できるのではないかと考えだした。よって以下に記述を試みる。

第1 歴史への自己投射

 まず最初に考えたのは、「歴史への屈従」、ないし「女性性への屈従」という屈辱ないしむなしさについてである。
 人は行為するとき、あるいは行為の客体となるとき、自分の属性や帰属集団の一員としての性質・役割を意識・無意識的に纏っている。
 つまり“女性”が“男性”に性暴力を受けるとき、そこにはただ現在の“私”が性暴力を受けているという側面の他に、歴史的に抑圧されレイプされ、排除され続けてきた数々の骸の徴標としての、つまりシンボルとしての“女性”として、今私はレイプされているのだと意識する。あるいは、そう眼差される。つまり過去からの被抑圧の歴史に絡め取られながら、抑圧者への怒りが、自分だけでなく、過去や現在を生きる“女性たち”の抽象的な怒りの噴出として現在する。
 また、加害者である“男”についてもそうだ。その人個人への非難とともに、「“また”男が女を蹂躙した」「許せん」と、“男”総体への怒りがそこに含まれる。

 どうであろうか、このことは「男→女」類型の罪がより重く感じられることの理由の一つではなかろうか。最近は例えば、白人が黒人にリンチされた場合と、黒人が白人にリンチされた場合のアナロジー(あるいは日本人と「朝鮮人」でも良いが、)でも考える。歴史的に抑圧されてきた、被抑圧者達は、自らの身体に、過去からの無数の骸を投射し、歴史に絡め取られていく現在の(“私”であるとともにそれ以上に)“被抑圧者の一人”として、怒りや、屈辱、むなしさを感じるのではなかろうか。

第2 身体機能の強制徴発

 第2に、身体機能の強制徴用への怒り、屈辱という点を考えた。
 つまり、女性の身体ないし生殖器官のそれ本来の機能を、強制的に徴発されること。ここに、強い怒りとむなしさ、屈辱があるように思うのである。
 自分の意思とは無関係に強制的に、自らの身体機能が動員され、かつ自らの意思とは無関係に自らの器官はその本来の機能を”問題なく”働かせて加害者の身体に呼応する。これがどれほど屈辱的で怒りの湧くものか。

 これもおよそ「男→女」類型の被害に特殊なものといえるのではなかろうか。
 少なくとも「女→男」類型の被害では、上記のような歴史への自己投影や、他の被害者達との同一性の想起は生じにくいのではないだろうか。

 ここで、被害による感情毀損の大きさは、被害者の思想や宗教感とも連関して変容するようにも思う。例えば熱心な宗教の信者であれば、「神の意思に反する行為」に該たるような異端の行為として捉えられる同性からの被害の方がより強く傷つく、ということもあるかもしれない。
 また、ホモフォビックな感性を持つ被害者は、同性からの被害の方が、より強く傷つく、ということもあるかもしれない。

終わりに

 さて、いろいろ書いてきたが、私は「男→女」類型以外の「女→男」「男→男」「女→女」類型の被害を矮小化したいという思いがあるわけではない。
 そうではなく、各類型ごとに、被害の意味内容は大きく変わるということを確認したいのである。であるから、「男→女」も「女→男」も「男→男」も「女→女」も“同じように被害が大きい”という表現はよくないように思う。類型毎に(勿論被害毎にも違うのだが)、それぞれ被害の意味内容は違っているのであって、“同じように被害が大きい”のではない。それぞれ違った態様で被害があるのであろう。
 例えば「男→男」類型であれば、それを他者に相談できないことの苦痛や、(前時代的感性による)「男らしさ」の毀損による苦痛、それをずっと身に隠していくことの苦痛は、連帯し投射できる存在が少ないという孤独感も相まって、また特有の強烈な被害を与えるだろう。

 類型化による被害性の記述にどのような意義があるかは未だ自分の中でも明らかではないが、ここに記述を試みた次第である。


脚注

  1. ジャニーズ性暴力問題について : おきく’s第3波フェミニズム https://thirdfemi.exblog.jp/33405202/ (2023年10月6日) ↩︎

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