「資嗣」という単語の意味について
「資嗣」という単語の意味について 『天台真盛宗宗学汎論』1を読んでいると、「資嗣」という語が出てきた。以下のような一節である。 皇室・長慶に受法した良祐から三昧流が始まり、良祐の資嗣相実(1165寂)が無動寺に法曼院を
「資嗣」という単語の意味について 『天台真盛宗宗学汎論』1を読んでいると、「資嗣」という語が出てきた。以下のような一節である。 皇室・長慶に受法した良祐から三昧流が始まり、良祐の資嗣相実(1165寂)が無動寺に法曼院を
自我偈「久乃見仏者」の解釈について 天台真盛宗布教団伊勢支部の刊行物「まこと」214号の2頁において、自我偈の解説がなされており、その中の「現代語意訳」の欄において、「久乃見仏者」という箇所((大正No.262, 9巻
弥助侍説の議論について門外漢の放談 下記ブログ記事(以下、「uncorrelated記事」とする)を読んだ。 弥助問題は全く関知していないし、斜め読みしただけだが、覚書。 本事例は、文化盗用問題の一事例と考えることも
規範の正当性を検証しようとする動機を形成する条件について 現在、一般に共有されている倫理観については「人権思想」という一つの思想の形態に過ぎず、絶対的なものではないという立場(相対主義的な立場)を私はとっている1。 そ
私の相対主義的思想とイスラム的規範 大学の三年〜四年頃から私は簡単にいえば、相対主義に似た立場を取り始めたのであるが(「田野大輔のブログ」1「クィアベイティング」2などでも表現されている)、思えば本サイトにおいては、そ
常不軽菩薩の六根清浄の獲得過程———法華経常不軽菩薩品第二十より 法華経の常不軽菩薩品第二十に以下のような部分がある。順に漢文白文、漢文訓読、漢文現代語訳、梵語現代語訳を引用する。 《漢文白文》是比丘臨欲終時。於虚空中。
仏教における「分別」について 仏教では分別という語について「くせ者であり、仏道の障りとされる。」1など、負の評価を与えられるものとして、捉えられているという説明を諸所で目にする。 以下のように説明するものもある。 しか
「毎自作是念/念を作なさく」———法華経と「作なさく」とク語法について 法華経の如来寿量品第十六の自我偈の最後から四句目に「毎自作是念」という句がある1。『実修妙法蓮華経: 法華経全二十八品読誦』(延暦寺学問所