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鬼束ちひろ『蛍』と時間性。そして作品解釈へ〜〜辻恵『放課後の少女たち』、『PERSON of INTEREST 犯罪予知ユニット』、『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』、『Carol (キャロル)』、『Thelma & Louise (テルマ&ルイーズ)』、『The Hours (めぐりあう時間たち)』〜〜

投稿日:2023年10月5日 更新日:

鬼束ちひろ『蛍』と時間性。そして作品解釈へ〜〜辻恵『放課後の少女たち』、『PERSON of INTEREST 犯罪予知ユニット』、『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』、『Carol (キャロル)』、『Thelma & Louise (テルマ&ルイーズ)』、『The Hours (めぐりあう時間たち)』〜〜

※以下の文章には、テレビドラマ『PERSON of INTEREST 犯罪予知ユニット』(『パーソン・オブ・インタレスト』)に関するネタバレが含まれます。ほかに、辻恵『放課後の少女たち』、『PERSON of INTEREST 犯罪予知ユニット』、『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』、『Carol (キャロル)』、『Thelma & Louise (テルマ&ルイーズ)』、『The Hours (めぐりあう時間たち)』についての言及があります。





第1章 鬼束ちひろ『蛍』と一瞬の永遠性

 2021年の6月から8月にかけて、prime videoで、テレビドラマ『PERSON of INTEREST 犯罪予知ユニット』(『パーソン・オブ・インタレスト』)を視聴した。この作品は傑作である。おもしろいし、SF的な示唆にも富んでいる。尚、初めて観る人には、私はシーズン5の9話まで見て、そこで止めることをおすすめしようかと思うこともあった。あそこで完結しているようにも思えるし、また理由は後述する。

―以下ネタバレあり―

 『パーソン・オブ・インタレスト』について、私は、サミーン・ショウとルートの関係に仮託し、幸せなENDを期待しながら視聴していたのもあって、シーズン5のENDには、非常にショックを受け、鬱状態に陥り、1月ほど立ち直れなかった。それは私だけでもないようで、その絶望を解釈により回復するために、『Person Of Interest | Alternate Ending』 (https://www.youtube.com/watch?v=C92qbGn1_k4)なるものが二次創作として作られ、youtubeでは90万回近く再生されていた。

 それも一つの解決法かもしれない。

 しかし、私は、上記の鬱状態の解決のために、この世界の時間制の解釈についてコペルニクス的転回を経験することとなった。

 私たちは兎角、過去より現在(ないし未来)の事象を重要視しがちである。つまり過去→現在→未来という時間的流れの序列によって価値づけをし、一つの物語としてみる。
 例えば、ある物語において、どんなに二人が愛し合っていても、その後二人が別れたり、片方が死別したりすれば、それは「悲劇」として認識される。ある一瞬において、どんなに強力な愛が存在していたとしても、”その後”の出来事によって、それは悲劇となるのである。過去<現在(ないし未来)という価値づけである。
 そのような時間に対する認識である限り、ある一瞬の二人の愛はどこまでも脆弱であるし、我々は無限の道に開かれる未来に対して不安が尽きない。
 そんな世界では私は生きていけない。

 そこで私は、時間を以下のように解釈するようになった。

 つまり、ある一瞬一瞬の出来事が、同時に並列的に永遠に保管されるという捉え方である。今現在の一瞬も過去のひとときも、未来のある出来事も永遠に輝きをもってパラレルに永続する。その価値が、これから起こる事象によって変性することはない。
 私が今このとき、あなたを世界の誰より愛しているという事実は、これから起こる事象によって変わるわけではなく、この想いも、あなたの肌の感触も、すべては時間的に無限の拡がりをもっているのである。

 以上のように考えるようになってから、私は大分生きるのが楽になった。ある一瞬の輝きは常に第一次的にプライマリーな存在として永続しているのである。
 昔は父や母が死んでしまうことが怖かった。不動点を無くしてしまうような気がしたし、彼らが死ぬ前に、できることをしておからければならないという不安感もあった。
 しかし、そうではない。私が彼らに伝えた感謝や、一緒に過ごした楽しさや、愛情、想いは、常にプライマリーであり続ける。もはや、彼らと私との関係は完全に完了しており、ここから焦ってなにかやる必要もない1

 つまり私は、時間的序列によって価値づけを行うことをやめ、一瞬の永遠性という世界で生きることにしたのである。

 さて、このように生き始めてから、鬼束ちひろの『蛍』(https://www.youtube.com/watch?v=PAbh3bpJxlk )をある時聞いた。そうすると、私の採用した時間的解釈がそこで再現されており驚嘆した。

 

歌詞にはこうある。

時間よ止まれ
この手に止まれ
一縷の雨は途切れて消える
誰も貴方になれない事を
知ってしまうそれを永遠と
呼ぶのだろう

想いは指を絡めるように
この夜を次第に燃やして行く
さよならの終わりを擦り抜けて
今でも身体を抱く

蛍 この星を舞い上がれ
遠く近く照らして踊れ
その一瞬が永遠だと
貴方は教えてくれたひと

時間よ止まれ
この手に止まれ
光の影は薄れて落ちる
握り締めた二人の手のひらが
汗ばむ熱を上げていく
側にいて側にいて繰り返し
今でも哀しみを抱く

蛍 この闇を舞い上がれ
涙で霞む夜空を踊れ
その一瞬が何もかもだと
貴方は教えてくれたひと

硝子越しでもかまわないと
私は無力さを晒して行く
愛なんてわずかなものを
頼りにしたあの夏を

蛍 この星を舞い上がれ
遠く近く照らして踊れ
その一瞬が永遠だと
貴方は教えてくれたひと

蛍 鮮やかに心を焦がせ
強く弱く光って踊れ
全てのときは一瞬だと
貴方は答えてくれたひと
貴方は教えてくれたひと

(https://lyricstranslate.com)



まさに、ここでは一瞬の永遠性が歌われているではないか。「その一瞬が永遠」なのであって、「全てのときは一瞬」なのである。全ての一瞬はパラレルに永続するのだ。

なお、歌詞の最初では、「時間よ止まれこの手に止まれ」と、語り手が願っているが、この段階ではおそらく語り手は、時間的序列の価値づけに囚われている。しかし、「誰も貴方になれない事を知ってしまう」ことにより、「それを永遠と呼ぶのだろう」として、「その一瞬が永遠」なのであって、「全てのときは一瞬」なのであると、語り手は確信するのである。

私や鬼束は、時間的序列の世界から「永遠の一瞬」の世界に移行したのである。

第2章 時間価値の作品における表現手法

 さて、最近、第2回「ゲンロンひらめき☆マンガ大賞」最終候補作品である辻恵『放課後の少女たち』(https://school.genron.co.jp/works/manga/2018/students/tsujimegumi/9608/)(https://www.amazon.co.jp/dp/B08B5HQL3L )を読んだ。他の候補作と比べて、作品としての完成度は抜けているし、作者のやりたいことも伝わってくる。物語としてもまとまっている。

 しかしだ。フェミニズム、ジェンダー論に触れたことがあり、百合作品、あるいは性的マイノリティを描く作品にもそれなりに触れたことがある身からすると、「またこれか」という感じが強い。
 つまり、機会的同性愛でのロマンの時代から類型的な現実に絡め取られていく少女たちを、ただ、現実的に描いてそれで問題提起をしているだけのように感じられるのだ。2

 私は、ただ問題提起のみをして、なんらそこに解決を示さない作品というものを評価できない。問題提起のみなら誰でもできるし、一定の問題提起が社会に出された後は、それは反復でしかなく、そこに価値はないように思える。作家であれば、なんらかの解釈やその先の道を提示してほしいし、それをしないのは思想的に怠惰だとも思う(これは私の好みの問題かもしれないが)。

 例えば、『Thelma & Louise (テルマ&ルイーズ)』はその点で素晴らしい。ただ現実を描き問題提起をするのではなく、明らかにその現実からの哲学的、思想的克服を試みている。
 それに対して、『放課後の少女たち』や『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』は、ただ現実を描き、「ほらリアルってこうだぞ」と提示するだけだ。そこにアートとしての価値はあるだろうか。仮に明確な解釈上の処方箋を提示しないとしたら、『Carol (キャロル)』(トッド・ヘインズ)のように、エンタメとしての「救い」を与えてほしい。

 現実をリアルに提示するのが悪いわけではない。例えば『The Hours (めぐりあう時間たち)』は、極めてリアリスティックであるとともに、視聴者にカタルシスを与えることに成功している。過去から現在(ないし未来)への人々をつなぎ、動き出すことで、一見別々に見える「The Hours時間たち」が接続されるという解釈的克服が挑戦的に描かれるからであろう。

 仮に私が、『放課後の少女たち』を描くとしたら、在学中の彼女たちと、卒業してから5年後の彼女たちを並列的にパラレルに描き(ずっと交互に場面を描く)、一瞬の輝きの永遠性、価値保管性を強調するだろう。

 勿論、読者の側で、「時間の永遠性」原理を頭に置きながら作品を読めば、あらゆる作品をある種肯定的に読み取ることはできるのだが、やはり、作者の側で、作品内になんらかの解釈論を入れてほしいところだ。






  1. (20241003_10時頃追記) 俵万智の『サラダ記念日』(2016、新装版)に次の歌がある(10頁)。
     寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら
    丁度、この歌と同じような満足感が遍満している感覚であって、尚且つそれが継続しているのである。  ↩︎
  2. (20240908_9時頃追記) いや、違うな。政治的な問題提起をしているのではなく、悲哀のストーリーとしての美意識、ないし美学的意思がそこにあるのだ。私にもある。デカダン、退廃主義への希求にも似る。抑圧の中のわびしさや、切なさ。そういったものが、克服されるべき障害として以上に、それ自体が美しさへのフェティシズムやナルシシズムの対象となる。映画も、昔はそういうものの方が好きだった。フランシスベーコンとか好きだし。David Hamiltonの写真もそういった観点で評価できる。邦画でも似たような寂しさを表現するものは多い。『Blue』(2003)とか。こういう趣味をなんというのだろう。 ↩︎

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  1. 匿名 より:

    思えば、これは永劫回帰と同じ発想ではなかろうか。

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