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法華経 提婆達多品第十二「而作牀座/而為牀座」(「而作床座/而為床座」)について

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法華経 提婆達多品第十二「而作牀座/而為牀座」(「而作床座/而為床座」)について

 『法華経山家本』[1] [2] [3]を読んでいると、「而作牀座」という節があった。前後の句と合わせると「乃至以身 而作牀座 身心無倦」となっている。

  • 読み下し:乃至身を以って牀座と作(な)ししに、身心倦(ものう)きこと無かりき。[4]
  • 現代語訳:寝ている〔仙人の〕寝台の脚の代わりを私は担ったのだ。それでも、私には身体の疲れもなく、心に疲れが生ずることもなかった。[5] [6]

さて、ところで、上記読み下し文の「作ししに」という文の品詞構造が気になって調べていた。結果は恐らく、以下のような品詞構造になるだろう。

  • 「作し」→動詞「作す」(サ行四段活用)の連用形
  • 「し」→助動詞「き」の連体形、連用形接続
  • 「に」[7]→接続助詞「に」、連体形接続

尚、「作ししに」ではなく、「作せしに」と訳する場合が多い1。上記古文法のルールから逸脱するように思えるが、しかし、官報 1905年12月02日の『文法上許容スベキ事項』によれば「サ行四段活用の動詞を、助動詞の「し・しか」に連ねて「暮しし時」「過ししかば」などいふべき場合を、「暮せし時」「過せしかば」などするも妨なし/例 唯一遍の通告を為せしに止まれり/攻撃開始より陥落まで、僅に五箇月を費せしのみ」[8]とあり、この規定によれば、「作せし」としても許容すべきということになる。思えば、サ行変格活用の動詞に接続するときに助動詞「き」が未然形接続になるのも、連用形接続のままでは「しし」「ししか」となり発音し難いということが理由というような説も読んだことがある[9]。もしかしたら、当時は、発音のし易さという理由で、サ行四段活用の場合も未然形接続が一般に行われていたのかもしれない。

 さて、上述のように、古文法漢文法的には一応の決着を見た。しかし、上記を調べている過程で、田島毓堂氏の『法華経為字和訓考』という一連の論文群[10]に出会った。これによれば、浄厳『冠註略解/妙法蓮華経新註』では「而作牀座」ではなく「而為牀座」とされており、竜光院蔵妙法蓮華経古点では、本文は「而作牀座」とされていながらも<本文”為”ヲ訂正ス>とされており、立本寺蔵 妙法蓮華経古点でも「(*或本為字作也)」、とあるようであり、「而作牀座」ではなく「而為牀座」という表記になっているものもあるようであった[11] [12]。調べ始めたのだが、管見の限り、当該校異について検討するものは少なかった[13]。しかし、調べたところ、以下の論文に記載は見つかった。

  • ①田島毓堂「法華経為字和訓考(四)―作・成―(承前)」[14] 6頁
  • ②田島毓堂「法華経為字和訓考―資料篇(五)―」[15] 5頁
  • ③田島毓堂「法華経為字訓序説―付、為字索引―」[16] 1頁
  • ④大坪併治の研究[17]

論文①によれば、八巻本系では「而作牀座」、七巻本系では「而為牀座」となっているようである。八巻本系・七巻本系というのは聞き覚えがなかったが、おそらく、八巻本系というのは、現在一般に日本で普及している折本の法華経であり、七巻本系というのは、おそらく宗・元代に、宗・元で(?)開版されたものをいうのだと思われる[18]

 私は鳩摩羅什訳について校異があるという認識を欠いていたが、思えば、さまざまな理由で違いがあって当然かもしれない。たとえば山家本は「古字や俗字をも含む異体文字がふんだんに用いられ、その書風とともに豊富な異字体の存在が山家本に重厚な趣を醸し出している」とされていた[19]。それぞれの版の相違については追って調べたい。

用語について:

  • 「訓」:①原義(中国)ある漢字の意味を、似た意を有する他の漢字で示す[20]。②ある場合には「訓」とは漢字注のことを示す(そうではない場合もある)。[21]
  • 「漢字訓」:漢字で意味などを示す「漢字訓」[22] 後述図も参照のこと
  • 「○字訓」:○の文字に対する漢字の注を「○字訓」と称することとする(例;為字訓)。その為字に対する和訓「為字和訓」と区別しておく[23]
  • 「為字訓」:唐・慈恩大師窺基『法華経為為章』に由来する、法華経中の為字の意味を示す漢字注をいう。[24]
  • わ‐くん【和訓・倭訓】」:〘 名詞 〙 漢字・漢語の持っている意味に当てた、やまとことばによるよみ。 読み。 国訓。 訓。[25]
  • 「義注」:親字につけた訓詁注釋を “義注”. という。[26] [27]
  • 「漢字注」:「ある漢字に付けられた漢字の注は、その漢字の常用和訓でないものを、その和訓として存在させるだけの威力があり、逆にその支へを失ふと途端に、その漢字がなぜさう読まれるのかさへ不明になる。・・・漢字訓自体は常用漢字的な文字であり、それが想起させる和訓は漢字訓として用いられた漢字の常用和訓的な和訓である。古辞書等において、漢字による義注が施されることは普通のことであるが、直接間接を問はず、その感じによる注が漢字訓としての機能を果たし、それを経て後の段階で和訓化されてゐることは、新撰字鏡・類聚名義抄・字鏡・字鏡集その他を見てゐると終始あることである。」田島毓堂「法華経訓読史研究の諸問題」『名古屋大学文学部研究論集』 (通号 124) 1996 pp.233~250【Z22-236】、 3−4頁
  • 「真読」:漢訳『法華経』が我が国に伝来した当初は、おそらく中国音で読まれたと思われます。つまり字音による棒読み、すなわち真読(しんどく)であります。その習慣が現在まで続いているため、お経を読むのを聞いていても、意味が一向にわからないという嘆声が出るわけです。また、もっとわかりやすい日本語にならないものだろうか、いやそうすべきだ、というような意見も出てくるわけであります。[28] [29]

参考資料:漢字注、漢字訓の例*科註妙法蓮華經8卷2 3

 「爲」に「以」の漢字注がふられている。本記事執筆のrinは言語学や古典、仏教などには素人であるので確かではないが、国会デジタルライブラリーをしらみ潰しに探して見つけた漢字注、漢字訓らしいものをここに挙げた。実物を見なければなかなか上述論文を読んでいても理解できない部分が多かった。

図①:科註妙法蓮華經8卷著者 元徐行善撰, 元釋必昇校 出版者 中野氏道伴刊 40頁A 
図②:科註妙法蓮華經8卷著者 元徐行善撰, 元釋必昇校 出版者 中野氏道伴刊 40頁B
図③:科註妙法蓮華經8卷著者 元徐行善撰, 元釋必昇校 出版者 中野氏道伴刊 40頁C


参考文献

・題名: 田島毓堂著『法華経為字和訓の研究を読んで ; 執筆者名: 遠藤好英 ; 誌著名: 名古屋大学国語国文学 ; 請求: ナ00150 ; 通巻: 87.  https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/2008796



脚注


[1] 伝教大師の真蹟を模刻し、大 原寺如来蔵に所蔵された慈覚大師の点本と葛川明王堂所蔵の乾元本法華経の読 音を正用して、真阿宗淵上人が天保六年(1835)に開板された(長谷川明紀「『諸経中陀羅尼集』(醍醐寺蔵)と 『法華経山家本』の陀羅尼漢字への加点」https://kogakkan.repo.nii.ac.jp/record/60/files/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%B4%80%E8%A6%8155-02.pdf 4頁)、以下ホームページも参照のこと(https://www.mctv.ne.jp/~tomokohs/syuppan.html )。

[2] 「伝教版法華経について」 兜木 正亨 https://www.jstage.jst.go.jp/article/nbra/23/0/23_71/_article/-char/ja/

[3] 法華経についてはオンラインで真読と訓読をよむことができる。法華経ウェブ版(日蓮宗 長崎教化センター)https://temple.nichiren.or.jp/nagasaki_hokekyo/ ただしこれは山家本ではない。

[4] 『実修妙法蓮華経: 法華経全二十八品読誦』(延暦寺学問所 協力 清水 宗純 読誦) 307頁

[5] サンスクリット原典現代語訳 法華経(下) 単行本 – 2015/3/25 植木 雅俊 (著), 22頁。正確には漢文からの現代語訳ではなく、サンスクリット原典からの翻訳であるが植木は鳩摩羅什訳も参照しているようである(同書263頁)。意味としては、四つん這いになって寝台の代わりになったという意味(ほんとうの法華経 (ちくま新書 1145) 新書 – 2015/10/5 橋爪 大三郎 (著), 植木 雅俊 (著) , 48頁)

[6] 「自身を椅子にしたりまでしたが、身心を怠けさせることが無かった。」という訳もあった(法華経 提婆達多品 – 法華経の現代語訳(エリファス1810) – カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816927859316712988/episodes/16817139555543593507 )。

[7] 漢文法での接続語「而」の逆接の用法で、文中にある場合は、それ自体は読まないが、直前に送り仮名を補って読む(河合塾,古典ポイント集,高3,2019,高校グリーンコース, 12頁,56頁)。

[8] 文法上許容スベキ事項 本文テキスト|セイル https://note.com/joyous_shrew1040/n/nd09272ed0d4e

[9] 富井の古典文法をはじめからていねいに【改訂版】 (東進ブックス 大学受験 名人の授業シリーズ) 単行本(ソフトカバー) – 2014/7/26 富井 健二 (著)、72頁

[10] 名古屋大学学術機関リポジトリ 田島毓堂 https://nagoya.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=0&q=&creator=%E7%94%B0%E5%B3%B6,%20%E6%AF%93%E5%A0%82

[11] 田島 毓堂「法華経為字和訓考―資料篇(五)―」https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/8086 5頁

[12] 尤も、田島毓堂の調べた26の書物のうちで、上記3つ以外の23の書物では、「而作牀座」となっていたようである(「法華経為字和訓考―資料篇(五)―」https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/8086 5頁)。

[13] 私は普段インターネットでリサーチしているが、流石に法華経研究をしようと思うと紙にもあたる必要が出てくるのかもしれない。

[14] https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/8070

[15] https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/8086

[16] https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/8161

[17] ①田島毓堂「法華経為字和訓考(四)―作・成―(承前)」6頁において言及されるが、どの著作・論文なのか措定できなかった。

[18] 宗・元版本にみる法華経絵(上)(下)   https://tobunken.repo.nii.ac.jp/record/6371/files/325_25_Miya_Redacted.pdf https://tobunken.repo.nii.ac.jp/record/6375/files/326_17_Miya_Redacted.pdf、(下)の26頁以下において七巻本と八巻本の相違が検証されている。

[19] 長谷川明紀2023『『法華経山家本』の読音を探る』江津山西方寺、118頁

[20] 白木 進. 日本における漢字の音と訓. 国文学研究. (通号 4) 1968.11.00,p.178~188. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I184462 183頁

[21] 「「為」字の訓読について」石川洋子 · 1993 https://doho.repo.nii.ac.jp/record/607/files/%E5%90%8C%E6%9C%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%AB%96%E5%8F%A269.1-22.pdf 、2頁

[22] 伊藤智弘 · 2024 — 「字鏡集」の研究 要旨 https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/96165/34084_Abstract.pdf

[23]田島 毓堂「法華経訓読史研究の諸問題」『名古屋大学文学部研究論集』 (通号 124) 1996 pp.233~250【Z22-236】、 16頁注5

[24] 『日遠上人と法華経訓読』  by 田島毓堂 · 2002、https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/7622/files/295_%E7%AC%AC28%E5%8F%B7_%E6%97%A5%E9%81%A0%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C%E8%A8%93%E8%AA%AD.pdf 、11頁注7

[25] 和訓(ワクン)とは? 意味や使い方 – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E8%A8%93-664917#:~:text=%E3%82%8F%E2%80%90%E3%81%8F%E3%82%93%E3%80%90%E5%92%8C%E8%A8%93%E3%83%BB,%E8%A8%93%E3%80%82

[26] 『附釋文互註禮部韻略』義注より見た『集韻』義注 by 水谷誠 · 1996 https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/2420/files/ChugokuBungaku_22_00_005.pdf 60頁

[27] 「ある漢字に付けられた漢字の注は、その漢字の常用和訓でないものを、その和訓として存在させるだけの威力があり、逆にその支へを失ふと途端に、その漢字がなぜさう読まれるのかさへ不明になる。・・・漢字訓自体は常用漢字的な文字であり、それが想起させる和訓は漢字訓として用いられた漢字の常用和訓的な和訓である。古辞書等において、漢字による義注が施されることは普通のことであるが、直接間接を問はず、その感じによる注が漢字訓としての機能を果たし、それを経て後の段階で和訓化されてゐることは、新撰字鏡・類聚名義抄・字鏡・字鏡集その他を見てゐると終始あることである。」田島毓堂「法華経訓読史研究の諸問題」『名古屋大学文学部研究論集』 (通号 124) 1996 pp.233~250【Z22-236】、 3−4頁

[28] 漢訳『法華経』と漢文についてhttp://james.3zoku.com/kojintekina.com/monthly/monthly60506.html

[29] 加藤徹(KATO Toru) on X: “自分の備忘用に 江戸期の両点本『法華経』方便品第二(十如是まで) 経文の漢文の原文の右脇に「真読」、左脇に「( #漢文 ) #訓読 」を表記した「両点本」です。この画像はパブリックドメイン(public domain)にします。 https://t.co/atKHiZdwRQ https://t.co/Y7aD8mfU2f” / X https://x.com/katotoru1963/status/1494927839166021633

  1. 田島 毓堂「法華経為字和訓考―資料篇(五)―」https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/8086 5頁 ↩︎
  2. 科註妙法蓮華經8卷 [1] 書誌情報 : 著者 元徐行善撰, 元釋必昇校 出版者 中野氏道伴刊 出版年月日 慶安4 国立国会図書館デジタルコレクション(
    https://dl.ndl.go.jp/pid/2559848/1/40) ↩︎
  3. なお、「而作牀座」の箇所も確認できる。https://dl.ndl.go.jp/pid/2559851/1/5 ↩︎

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