是枝裕和監督『怪物』感想
仕事が残っているのだが、我慢できずに是枝監督の『怪物』観てきた。観終わってすぐこれを書いている。書き殴り。
以下、ネタバレあり。
前評判・事前情報としては偶々、ラジオでダイアン津田が「よかった」と絶賛し注(1)、シラスで東浩紀が「よかった、美しかったが脚本に難あり」「後半はスタンドバイミーを想起」と述べていた注(2)のを聞いた、という程度で、内容に関しては、殆ど仕入れずに鑑賞に至った。
(終わってすぐに東浩紀さんの所感をtwitterのサブスク注(3)で拝見したが、感じていたことが言語化され、もやもやが若干解けた)
さて、最近の邦画はほとんど観ていない私であるが、観ている途中から既に「うん、これはいい映画だな」との感触。演出が良いのだろうか。心地良い感覚になれる。緊張感も保たれているし、空気が静かで心地よい。最近の邦画特有の「キツさ」も殆ど感じなかった。
前半はミステリーとして楽しめる。「怪物」が誰か、という主題?にミスリードがあるという仕掛けには割とすぐに勘付いたが(それほど隠されてもいない)、それでも楽しめた。
気が付いた後は、どのように伏線が回収されていくのか楽しみに観ていた。
中盤も上手く緊張感が持続する。
そして、二人の少年にフォーカスが寄ってからは、心洗われるような感覚。甘美な香りに包まれる。二人の演技、素晴らしい。演出も。ここは大手を振るって賞賛できる。この点だけでも価値ある映画といっていいと思う(デイヴィッド・ハミルトン作品みたいな?)。二人の距離感が無理なくリアルに生々しく感じられたのも良かった。
そして、橋。東浩紀の言葉が浮かぶ。途中で柵越しに二人が見る橋もスタンドバイミーを想起させたが、最後に橋に向かって駆ける二人の姿でより決定的に感じられた。
よかった。
が。たしかに、脚本、ストーリー、構成に気になる部分が多かった。伏線が回収されきれずに終わる。
特に、二人が先生に帰責した(悪者に仕立てた)理由がよくわからなかった。簡単にいえば防衛本能ということであろうか(確かに、あの年齢の子供の行為に高度の合理性、目的を求めるのはおかしいようにも思う。それでも観ている途中に気にはなった)
また、先生が二人の関係に気が付いたのも「なぜ?」と思った。作文の暗号のみでは無理があろう(私がなにか見落としているのかも)。
もっとも、あまりに綺麗に伏線回収されても気持ち悪いのかもしれない。あれくらいぼやぼやとしておいた方が、単に二人の情感に浸ることができるのかもしれん。しかし、疑問点はたしかに多かった。
校長の行動原理もよく分からない部分があった。しかし、そこまでは気にならない。よく分からないが納得感はあった。
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しかし、やはり全体としては良かった。台詞も自然でよかったなあ。邦画の不自然なところが嫌いだったのだが、そこら辺のアレルギーは刺激されなかった。非常に自然であった。
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何かマッサージを受けているような気持ちよくなれる映画ではあった。後半だけ、マッサージ気分で何度か見直したいなというのは、『リップヴァンウィンクルの花嫁』と同じような感覚もある。
全体として東浩紀評に同意する。個人的には、なにか「大切にしたい」と思えるような作品であったのでそこはよかった。しかし、脚本にはやはり無理があるようにも思う(これが、ある効果を狙って意図的になされているような感覚もあるが。謎な部分が多い方が、解釈の幅も広がるし、作品が作品世界以上の広がりを持つように思える。鑑賞後も世界が持続する)。それと政治的な説教くささも感じなかったので、その点もよいと思う。
(”怪物”について、軽く付言しておく。前半では先生が現代日本の学校教育の象徴として”怪物”として徴表され(そして学校組織注(4)も)、次いで湊の”異常”が”怪物”なのではないかと勘ぐり始める。そして、最後には湊の(あるいは依里の)”異常”を”怪物”と目しそうになった観衆(=社会)が”怪物”であると気が付かされる。)
総評としては観てよかった。政治的に正しくない受容の仕方かもしれないが、プラトニックな空気に胸騒ぎがし、焦燥感から胃の中を蝶が羽ばたきはじめる。あまりの眩しさ、力強さに目を手で覆うが、溢れんばかりの剥き出しの想いが手指の僅かな隙間から貫入してきて、首元に汗が滲んでくる。自分のセクシャリティがどうこういうわけではないが、何処か共感性に満ちていた。
(20230708追記)
少し変に思われるかもしれないことを書く。
映画を観てから後、ここ数年の運動不足で少し出た下腹が気になってきて、ここ2日ランニングをしている。自分の外見が気になったのは久しぶりだ(『真夏の方程式』の福山雅治の言葉を思い出した)。
前にyoutubeで「How GAY are you? (Social Experiment)」という動画注(5)を見た。内容は、路上で人に、どれくらい自分がゲイと感じるかを10段階で問うものである。その中で、一人の男性が「日曜日には0/10だが、火曜日には8.5/10だ」と答えていたのが印象に残っている。
映画を観た日の夜、少年時代の夢をみた。
脚注
- 注(1) 筆者が聴いたのは、ダイアンのTOKYO STYLE#79 本編「最新作公開直前!ジブリSP」(7月1日放送)。#78 おまけ「東京コールドプレイ」(6月24日放送の2部)でも言及されているようだが、そちらは聴いていない。 ↩︎
- 注(2) 「東浩紀突発#97 ワーケーションとはなにか」内での発言。 ↩︎
- 注(3) twitterのサブスク内での投稿であるから、内容は詳述しない。6月4日投稿。
https://twitter.com/hazuma/status/1665348873030860800 ↩︎ - 注(4) 組織内部の機関、人が紋切り型の応答しかできなくなるのは、SNSの影響もある。例えば、3.11の原発事故等に関する会見で、東電職員が機械的(非人間的)な応答に終始した。しかし、当時、顔を晒して発言すれば、ネットで個人情報が探られ、晒され、個人攻撃が始まる、という状況があった。このような状況では、職員は、「人」として発言することを恐れ、「組織の代弁者」として振る舞うことによって自己防衛を行う(マル激の安富歩の回か、東浩紀の回だったか、いやシラスだったか。何処かで上記のような説明がなされていた)。同じことは、学校教育の場での教師と保護者とのコミュニケーション、あるいは教師(学校)とマスコミとのコミュニケーションでも同じことがいえるであろう。個人攻撃を避けるという自己防衛のために、組織の機関として没人格化していくのである。 ↩︎
- 注(5) Mario Adrion「How GAY are you? (Social Experiment)」 https://www.youtube.com/watch?v=rUqn5LCqrlQ ↩︎