常不軽菩薩の六根清浄の獲得過程———法華経常不軽菩薩品第二十より
常不軽菩薩の六根清浄の獲得過程———法華経常不軽菩薩品第二十より

法華経の常不軽菩薩品第二十に以下のような部分がある。順に漢文白文、漢文訓読、漢文現代語訳、梵語現代語訳を引用する。
《漢文白文》
是比丘臨欲終時。於虚空中。具聞威音王佛先所説法華經。二十千萬億偈悉能受持。即得如上眼根清淨耳鼻舌身意根清淨。得是六根清淨已。更増壽命二百萬億那由他歳。廣爲人説是法華經。於時増上慢四衆。比丘比丘尼優婆塞優婆夷。輕賤是人。爲作不輕名者。見其得大神通力樂説辯力大善寂力。聞其所説皆信伏隨從。是菩薩復化千萬億衆令住阿耨多羅三藐三菩提。命終之後得値二千億佛。皆號日月燈明。於其法中説是法華經。以是因縁復値二千億佛。同號雲自在燈王。於此諸佛法中受持讀誦。爲諸四衆説此經典故。得是常眼清淨耳鼻舌身意諸根清淨。於四衆中説法心無所畏。(大正No.262, 9巻51頁a段3行-17行)(T0262_.09.0051a03-17)(http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2015/T0262_.09.0051a17:0051a03.cit )1
《漢文訓読》
是の比丘終らんと欲する時に臨んで、虚空の中に於て、具さに威音王仏の先に説きたもう所の法華経二十千万億の偈を聞いて、悉く能く受持して、即ち上の如き眼根清浄。耳・鼻・舌・身・意根清浄を得たり。是の六根清浄を得已って、更に寿命を増すこと二百万億那由佗歳、広く人の為に是の法華経を説く。時に増上慢の四衆の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の是の人を軽賤して為に不軽の名を作せし者、其の大神通力・楽説弁力・大善寂力を得たるを見、其の所説を聞いて、皆信伏隨従す。是の菩薩復千万億の衆を化して、阿耨多羅三藐三菩提に住せしむ。命終の後、二千億の仏に値いたてまつることを得、皆日月燈明と号く。其の法の中に於て是の法華経を説く。是の因縁を以て復二千億の仏に値いたてまつる、同じく雲自在燈王と号く。此の諸仏の法の中に於て受持・読誦して、諸の四衆の為に此の経典を説くが故に、是の常眼清浄・耳・鼻・舌・身・意の諸根の清浄を得て、四衆の中に於て法を説くに、心畏るる所なかりき。(法華経ウェブ版(日蓮宗 長崎教化センター) https://temple.nichiren.or.jp/nagasaki_hokekyo/page.html?file=HK20kun)2
《漢文現代語訳》
この常不軽菩薩、出家者は、命が終わろうとする時に臨んで、空中で、威音王仏が過去に説いた法華経の二十千万億の詩を全て聞いて、ことごとく受け入れて保持することができて、前述の通りに、眼が清浄になって、「耳、鼻、舌、身、意」が清浄になって、これら「六根」、「眼、耳、鼻、舌、身、意」が清浄になり終わると、寿命が二百万億那由他歳さらに増えて、広く、他の人の為に、この法華経を説いた。
その時、「増上慢の」、「悟っていないのに『悟った』と思い上がっている」出家者の男女や在家信者の男女、この人を「常不軽」と名づけた者達は、その常不軽菩薩が大いなる神通力、「楽説弁才」、「他者の願う所に従って自在に仏法を説く事ができる弁舌の才能」の力、大いなる善寂の力を得たのを見たり、その常不軽菩薩の所説を聞いたりして、皆、信じて服従した。
この常不軽菩薩は、また、幾千、幾万、幾億の「衆生」、「生者」を教化して、「阿耨多羅三藐三菩提」、「無上普遍正覚」に住まわせて、命が終わった後、皆、日月灯明仏と言う称号である二千億の仏に会うことができ得て、その仏法の中で、この法華経を説いた。
この因縁によって、また、雲自在灯王仏と言う同一の称号の二千億の諸仏に会って、この諸仏の仏法の中で、この法華経を受け入れて保持して、読んで、諸々の「四衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」の為に説いたので、この通常の肉眼が清浄になることができ得て、「耳、鼻、舌、身、意」などの諸々の「六根」が清浄になって、「四衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」の中で仏法を説いても心に恐れる所が無かった。(法華経 常不軽菩薩品 – 法華経の現代語訳(エリファス1810) – カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816927859316712988/episodes/16817139556301866577 )
《梵語現代語訳》
そして、その偉大な人であるサダーパリブータ菩薩3は、命の終わりが近づいた時、空中からの音声を通じてこの法門を聞いた。その菩薩は、誰も語っていない空中からの声を聞き、この法門を受持し、〔前章で述べた〕このような眼〔による視覚の能力〕の清らかさ、耳〔による聴覚の能力〕の清らかさ、鼻〔による嗅覚の能力〕の清らかさ、舌〔による味覚と言語の能力〕の清らかさ、身〔による触覚の能力〕の清らかさ、意〔による知覚の能力の清らかさ〕、すなわち六根清浄 を獲得した。これらの六つの感覚の能力の清らかさを獲得すると、直ちに自身の生命を存続させる働きに神通力をかけて、さらに次の二百万・コーティ・ナユタ年もの間、この”白蓮華のように最も優れた正しい教え”という法門を説いた。
・・・中略・・・
さらにその菩薩は、過去から続けて積み重ねてきた善い果報をもたらす立派な行い〔の果報〕によって、”太鼓の音の王”という共通の名前を持つ如来たちのうちの実に二百万・コーティ・ナユタもの如来たちに順次に出会い、そのすべての場合において、まさにこの”白蓮華のように最も優れた正しい教え”という法門に出会い、四衆たちにこの法門を説き示した。
さらにその菩薩は、まさにこの過去の善い果報をもたらす立派な行い〔の果報〕によって順次に”雲の音の王”(雲自在燈王 )という共通の名前を持つ如来たちのうちの実に二百万・コーティもの如来たちに出会い、そのすべての場合において、まさにこの”白蓮華のように最も優れた正しい教え”という法門に出会い、四衆たちにこの法門を説き明かしたのである。
そしてその人4は、そのすべての場合において、〔前章で述べた〕このような眼の完全な清らかさを具え、耳、鼻、舌、身、意の完全な清らかさを具えていた。(『法華経 : サンスクリット原典現代語訳(下)』(植木雅俊訳, 岩波書店, 2015.3)156-157頁) 5
上記箇所について、初読時に、気になった部分がいくつかあった。
まずは「於其法中」「於此諸佛法中」の意味である。諸々の仏法の中から法華経を選んだかのような記述だが、どういう意味だろうか。
一つには、何度も輪廻転生しながら「二千億佛。皆号日月燈明」6や、「二千億佛。同号雲自在燈王」7に会った常不軽菩薩が、転生した人生・世界で出会う様々な仏法から、毎回法華経を選んで受持・読誦乃至説法をしたということを意味しているのだと考えられる。ここで、漢文を読むと「於其法中」の直前に「二千億佛。皆号日月燈明」という記述があり、同じく「於此諸佛法中」直前に「二千億佛。同号雲自在燈王」という記述があるので、その「二千億佛。皆号日月燈明」や「二千億佛。同号雲自在燈王」が説いた種々の仏法のうちで、常不軽菩薩が法華経を選んで受持・読誦乃至説法をしたというように考え、「於其法中」「於此諸佛法中」の範囲を既出の諸仏が説いた仏法に限定して解釈するのが自然にも思える。ただ、植木の梵語現代語訳では、抑も「於其法中」「於此諸佛法中」に対応する箇所が存在しない(本記事執筆rinは梵語原文を参照していない)。また、「二千億佛。皆号日月燈明」や「二千億佛。同号雲自在燈王」が説いた種々の仏法と限定せずに、転生する先々の人生で出会う仏法のうちで、毎回法華経を選んだのだというふうに解釈することも可能に思われる。ただ、漢文を読むとやはり限定説の方が自然に思える。
つぎに、「説是法華経」「説此経典」「於四衆中説法」の行為主体は誰かということである。此の点については、文脈から判断し、行為主体は常不常菩薩だと思われる。
そして、つぎに、常不軽菩薩が六根清浄を二度獲得しているようにみえる点である。一度目は、常不軽菩薩が寂滅に近づいたときに威音王仏の法華経を聞くことによって得た六根清浄であり、二度目は、輪廻転生を続ける中で法華経を受持し諸々の四衆の為に此の経典を説くことによって得た六根清浄である。私は六根清浄のシステムも輪廻転生の仕組みもよく理解できていないが、引用箇所の記述をはじめに読んだときは、そのように解釈するところであった。しかし、いくつか、他の解釈可能性がある。例えば、植木の梵語現代語訳では、「そしてその人は、そのすべての場合において、〔前章で述べた〕このような眼の完全な清らかさを具え、耳、鼻、舌、身、意の完全な清らかさを具えていた。」としており、つまり常不軽菩薩が輪廻する人生ひとつひとつに於いて毎回六根清浄を具えることになるというように解釈しており、そのような解釈が一般的であるようにも思える。漢文で現れる「於此諸佛法中。受持読誦。為諸四衆。説此経典故。得是常眼清浄」の「故」に着目にしても、転生毎の人生で法華経を選び、受持読誦説法をした”故”に六根清浄を得たのだという論理関係———「故」の後段が、原因である「故」の前段の結果となるという論理関係———がやはり自然に感じる。
ただ、さらに他の解釈可能性もある。それは、漢文で現れる「説此経典故。得是常眼清浄。耳鼻舌身意。諸根清浄。於四衆中説法。心無所畏。」の「故」と「於四衆中説法。心無所畏。」との関係に着目する解釈である。つまり、ここで強調されているのは、「六根」が清浄になって、「四衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」の中で仏法を説いても心に恐れる所が無かったという部分だと理解し、その強調点を示すために、重複のきらいはあれども再度六根清浄の記述を加えたという理解である。この理解からすれば、二回目の六根清浄への言及は必要不可欠ではない。しかし、ややこじつけの感もあり、先の解釈に比べると正当性は弱いように感じる。
そこで、常不軽菩薩が輪廻する人生ひとつひとつに於いて毎回六根清浄を具えることになるというように解釈すると仮定したとして、ここでまた疑問が生じる。一つには、一旦身につけた六根清浄は輪廻転生後の来世では引き継がれないのかということである。輪廻転生毎に六根清浄を具えるとすると、転生毎に能力はリセットされているようにもみえる。それとも、六根清浄の重ねがけのようなシステムが存在するのであろうか。疑問の二つには、これは、もっと一般的な問いであるが、常不軽菩薩が、、「二千億佛。皆号日月燈明」や「二千億佛。同号雲自在燈王」に死後に何度も会っている現象は輪廻転生のシステムで、何度も転生しながらその世界の仏と会っているのだと考えてよいのだろうかということである。このことを考えるには、法華経と輪廻転生思想の関係を探らねばならないように思うが、勉強不足なため、此の点は追って研究することとしたい。
因みに、「常眼清浄」とあるが、この「常眼」とは何であろうか。此の点について、菅野博史は以下のように述べる。
そして、法身が顕現することについて、法師功徳品、あるいは『観普賢菩薩行法経』に説かれる六根清浄の文を次のように引用している。
お経に「法師は父母が生んだ清浄な常住の眼を持つ。耳・鼻・舌・身・意もまた同様である」とある。
経言、法師父母所生清浄常眼。耳鼻舌身意亦復加是(同前〔rin注:大正468〕698a12-13)と。「清浄常眼」の「常」は『法華経』の梵本では、「通常の」という意味であるが、慧思が「眼は常住であるので、流動しないと名づける。どのようなものを常住と名づけるのか。無生であるから常住である。(眼常故名為不流。云何名常。無生故常)」(同前699b11-12)と言っているのを参照すると、「常住」の眼という意味と理解していることがよくわかる。(「慧思『法華経安楽行義』の研究(1) 」菅野 博史 東洋学術研究 43 (2), 176-195, 2004, 181頁, https://www.totetu.org/assets/media/paper/t153_176.pdf ) 9
「「清浄常眼」の「常」は『法華経』の梵本では、「通常の」という意味である」とされるが、菅野によると、「法師功徳品の「常耳」の「常」に対応する梵語はPrākṛtaで、「普通」、「通常の」という意味」10のようである。梵語原典に当たらず漢文読解のみすることの是非についてはどう考えるべきなのであろうか。例えばサンスクリット原典、漢文の法華経と解釈の歴史について植木雅俊=橋爪大三郎は次のように謂う。
日本に伝わった法華経は、漢文だった。鳩摩羅什が五世紀の初め頃、サンスクリット語を漢訳したものだ。それをそのまま日本人は読んできた。ただでさえ漢文は難しいのに、中身も難しい。英語で素粒子物理学の論文を読むみたいで、なかなか歯が立たなかった。だから一般の人びとはナムミョーホーレンゲキョーと、題目を唱えていればよいとされた。/ところが、転機が訪れた。二〇〇年近く前、法華経のサンスクリット原本が見つかった。失われたと思われていたのだから、大発見である。/そのサンスクリット原本を徹底的に読み解き、鳩摩羅什の漢訳とも照らし合わせ、読みやすい日本語としてよみがえらせたのが、植木雅俊博士である。(『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎, 植木雅俊, 筑摩書房 2015.)13-14頁)
〔rin注:法華経のサンスクリット原典が現存するとわかり〕千数百年間、漢訳のみで読んできた法華経の原典ですから、みんなすぐに飛びついて勉強し始めました。(『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎, 植木雅俊, 筑摩書房 2015.)39頁)
また、福島光哉の智顗の思想についての論文では「普賢観経には「父母所生の清浄の常眼によって、五欲を断ぜずしてよく諸の障外の事を見る」と説かれているが、この清浄常眼も以上の如き円教の神通となって証明される」11という記述がある。福島の他の論文でも智顗の「常眼」解釈についての記述がある。以下に引用する。
もともと六根清浄については法師功徳品に、法華経を読誦・書写することによって父母所生の眼根が清浄となり、三千世界を見るなど多くの功徳を得ると説かれ、他の五根についても同様に清浄となってそれぞれ多くの功徳を得ることが明らかにされており、また観普賢経には、父母所生の清浄の常眼によって五欲を断ぜずしてよく諸の障外の事を見ることができる、と説かれている。智顗はとくにこの「常眼」に着目し、これは肉眼と仏眼とが不二であることを説くものとし、史掘摩羅経によってつぎの如く把握している。すなわち史掘摩羅経によると
所謂彼眼根 於諸如来常 決定分明見 具足無減修 ・・・・・・
(史掘摩羅経巻三、大正2・531C)
と説かれている。智顗はこの経文について「彼」とは仏法界を除く九界の衆生であって、彼らは自らの眼根を無常にして真に非ずとは謂うけれども、その眼根は如来においては常住であり、九法界の眼根は即仏法界となる。そしてその眼根は実相の理を照らし、法界の事を分明に見るのであり、「無減修」とは事禅に依らず実相の理を縁じて修することであると解釈する。したがって、本来我々の肉眼は実相無常の理にかなっている。即ち仏から我々の眼根を見れば仏眼と同じ原理に立っている。ただ現実には我々の肉源に限界があって実相さながらに見通すことができないだけであるから、実相を見通す智慧が具備されればそのまま仏眼であるといい、これを眼根清浄というのであり、他の五根についても同じであると解釈するのである。云いかえれば神通力の根拠となる六根のはたらきが、智顗のいう法華経の現実的な実相そのものを開顕するとき、ただちに諸の神通となって示現するというのである。(福島光哉, 1973, 天台の神通義(昭和47年度秋季公開講演会要旨), 大谷学報 52巻, 4号, p.74-77. https://otani.repo.nii.ac.jp/records/2403 76頁)
以上。
脚注
- ※太字・赤字は本記事執筆のrinによる。 ↩︎
- ※太字・赤字は本記事執筆のrinによる。 ↩︎
- rin注:常不軽菩薩のことである。梵: Sadāparibhūta。「常不軽」というのは意訳であるが、この意訳に関しても解釈に幅があるようだ。詳しくは、『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎, 植木雅俊, 筑摩書房 2015.)383-384頁参照 ↩︎
- rin注:常不軽菩薩のことであると思われる。 ↩︎
- ※脚注は省略した。〔〕内は植木のもの。振り仮名は原文ママ。※太字・赤字は本記事執筆のrinによる。 ↩︎
- 「皆、日月灯明仏と言う称号である二千億の仏」(漢語からの現代語訳) ↩︎
- 「雲自在灯王仏と言う同一の称号の二千億の諸仏」(漢語からの現代語訳) ↩︎
- 「大正」とあるのは、どうやら『大正新脩大蔵経』のことのようである。法学分野で「判批」とか「民集」とかいうように、分野内でのjargonが形成されているのだろう。大正46というのは、『大正新脩大蔵経』の46巻を意味するのだと思われる。 ↩︎
- ※paper location: search with phrase “法華経安楽行義” at https://www.totetu.org/publication/search/. ※脚注は省略した。 ↩︎
- 「慧思『法華経安楽行義』の研究(1) 」菅野 博史 東洋学術研究 43 (2), 176-195, 2004, 194頁,注15 ↩︎
- 福島光哉. (1975). 智顗の神通と説法. 大谷学報, 54(4), p1-11. 6頁 https://otani.repo.nii.ac.jp/records/2299 ↩︎