歴史,古典,仏教

仏教における「分別」について

仏教における「分別」について

(image photo)

 仏教では分別という語について「くせ者であり、仏道の障りとされる。」1など、負の評価を与えられるものとして、捉えられているという説明を諸所で目にする。
 以下のように説明するものもある。

しかし、仏教では「分別」を良い意味で用いることはありません。私たちが物事をわきまえようとしても、煩悩があるために、どうしても誤ったわきまえ方しか出来ないからです。煩悩とは、思い込みや決めつけと捉えても良いでしょう。そもそも、わきまえる(=分けて考える)こと自体が真実に反する態度だとも言えます。例えば、いつからいつまでが「朝」なのか、明確に線を引くことは出来ません。ですから、私たちの日常感覚とは逆に、仏教では「無分別」が真実の姿を示しているといいます。
(分別もまた空なり。 | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学 https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq000001p2dn.html)

 しかし、仏教でも素朴に正の評価を具備するものとして、「分別」という語が使われることもあるように思う。例えば、法華経法師功徳品第十九の最後の一節である。

  • 白文:能以千万種 善巧之語言 分別而演説 持法華経故2
  • 読み下し:能く千万種の善巧(ぜんぎょう)の語言を以て/分別して演説せん 法華経を持(たも)つが故なり3
  • 現代語訳:法華経を保持しているので、幾千、幾万種類の善い巧みな言葉によって、分別して、演説することが可能である。4

 上記の部分は、法師の功徳を説いた一連の偈文の一部であり、文脈からしてここで使われる「分別」とは、負の評価を持するものではないように思える。
 たとえば上田本昌は当該箇所について以下のような解説を加えている。

「能以千万種 善巧之語言 分別而演説 持法華経故。」
という語で此の品はしめくくられている如く、善巧の語言を数多く用いて、分別しながら法華経を演説せよ、というのであるから、これは布教をする上で、特に注意しなくてはならない事項といえよう。
 法華経を弘めることの功徳が説かれたあと、最後に布教の心得が示されているのである。つまりとぼしい言葉で、無分別に法を説くのではなく、豊富な言語を用意し、能く対告衆と時と国土等を分別して説かなくてはならない。法師たる者はしたがって布教に関しても十分なる修行を積み、聴聞の衆から歓喜愛敬されるように精進しなくてはならないことになる。

上田本昌, . (1990)『法華経に現われた法師と化人: 法師品を中心として』(身延山大学紀要論文,棲神 : 研究紀要/THE SEISHIN : The Journal of Nichiren and Buddhist Studies号 62, p. 1-19, 発行日 1990-03-30).15頁)


以上。



脚注

  1. 分別 | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学 https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000q85.html ↩︎
  2. ・隆文館株式会社 編『妙法蓮華経』,隆文館,大正9, 173頁. 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号91, https://dl.ndl.go.jp/pid/963233/1/91 (参照 2025-02-08)
    ・(大正No.262, 9巻46頁b段18行)(T0262_.09.0046b18)http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2015/T0262_.09.0050b22:0050b21.cit ↩︎
  3. 『実修妙法蓮華経: 法華経全二十八品読誦』(延暦寺学問所 協力 清水 宗純 読誦) 447頁 ↩︎
  4. 法華経 法師功徳品 – 法華経の現代語訳(エリファス1810) – カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816927859316712988/episodes/16817139556248024712 ↩︎

rin

https://blog-rin-life.com/about-me/

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です