マルクスと家事労働
『マルクス 資本論』( 佐々木隆治, 角川選書, 2018)[1]では、家事労働について以下のように言われる。
「生活過程のなかで行われる家事労働はいずれもマルクスのいう「私的労働」(社会的分業の一部を構成しながら、私的個人によって行われる私的な労働)ではなく、したがって価値を生み出すことはありません。ですから、家事労働がどれほど労働力の再生産に役立とうと、それが労働力の価値を形成することはないのです。」(佐々木 2018 : 232)
たしかに「労働の価値を形成するのは、それを再生産するのに必要な商品の価値だけ」(佐々木 2018: 232)として定義すれば、家事労働の担い手である夫や妻の機能を維持するための「商品」も「労働の価値を形成するのに必要な商品の価値」に結局含まれることになろうから1、家事労働を積極的に位置付けなくても、経済運動の考察は可能なようにも思われる。マルクスのような「私的労働」の定義の方が、マクロな視点での分析には複雑になりすぎず適しているのかもしれない。
しかし、「2021年の家事の経済的価値は総額144兆円に上り、名目国内総生産(GDP)の26.1%に相当する」とする資料もあり[2]、これに注目しないで経済を語るのはやはり失当にも思われる。
では、マルクスは家事労働をどのように位置付けているのであろうか。少し調べると、以下のような文章が出てきた。
大和礼子は以下のように述べる。
「マルクスは、家事が無償で行われ続けるために資本主義社会(資本家)がどのような仕組みを用意したのかといった問いを社会科学の問いとして立てることをあまり重視していないように思われる」[3]
堀眞由美は以下のように述べる。
「家庭の母 」,われわれのいう主婦の社会的産業への就業が「子供の世話や授乳」「裁縫やつくろい」を含む家族の消費のために必要な家庭労働,つまり家事労働の支出を削減する場合には,代替物の購入のための貨幣支出が増大し,労働者家族の生計費は増大する,とマルクスはいう。マルクスはここで家庭での主婦による家事労働の削減がもたらすことになる間接的な経済的影響についてのべている。しかし,ここでも家事労働とは何かについてのまとまった説明を行っているわけではない。しかしながら,マルクスが家事労働について論及したものは,おおかた以上に引用した程度のものなのである。その論及は,きわめて少なかったといえるだろう。そしてまた,マルクスが家事労働を主題にして論じたところはどこにもないといえるだろう。[4]
家事労働が価値を生むとか生まないとか,家事労働が労働力商品の生産に必要な労働時間に入るとか入らないとか,マルクス主義の立場にたって家事労働を論ずることが,およそ何の役にもたたない,いわばイデオロギーにとらわれた無意味な論争にすぎないことがわかった。家事労働を学問的にとりあげるのならば,それはマルクス主義の立場と視角等からではなく,家事労働が現実におかれている関係において,あるがままに研究されなければならないであろう。[5]
他方、マルクスの家事労働も労働力価値に入るという立場から書かれた森田成也の『家事労働とマルクス剰余価値論』という本もあるようだ。[6]
他にもあるだろう。見つけ次第追加していきたい。
(20241030_14時頃追記) 家事についての言及と思われる部分をみつけた。
「資本家のための強制労働は、子供の遊びにとって変わっただけではなく、家庭内で慣習的な限界のなかで家族自身のために行われる自由な労働にもとって変わったのである。(416)」(佐々木 2018 : 364)
「労働力の価値は、個々の成年労働者の生活維持に必要な労働時間によって規定されていただけではなく、労働者家族の生活維持に必要な労働時間によっても規定されていた。機械は、労働者家族の全員を労働市場に投ずることによって、成年男子の労働力の価値を彼の全家族のあいだに分割する。それだから、機械は彼の労働力を減価させるのである。たとえば四つの労働力に分割された家族を買うには、おそらく、以前に一人の家長を買うのにかかったよりも多くの費用がかかるであろう。しかし、そのかわりに一労働日が四労働日となり、その価格は、四労働日の剰余労働が一労働日の剰余労働を超過するのに比例して、下がってゆく。今では、一つの家族が生きるためには、四人がただ労働を提供するだけではなく、資本のための剰余労働をも提供しなければならない。こうして、機械は、はじめから、人間的搾取材料、つまり資本の最も固有な搾取領域を拡張すると同時に、搾取度をも拡張するのである。(417)」(佐々木 2018 : 同頁)
ところで、上記引用の太字部分のマルクスの文章は理解しにくい。
少し実例で考えてみる。家長の家族を雇うことになった場合、実際には、新規で三人を雇うことになるわけだから、資本家としては、単にそれまでの家長への賃金を四分割した額で家族四人を雇うわけにはいかず2、例えば以下のような感じで
家長(20) → 家長(20)+配偶者(4)+子(3)+子(3)=家族(30)
というようにそれまで家長に払っていた賃金よりも多くの賃金を家族に対して払わなければいけない、つまり、「おそらく、以前に一人の家長の労働力を買うのにかかったよりも多くの費用がかかるであろう」と考えられるが、しかし例えば、剰余労働の総量が、
家長(20) → 家長(20)+配偶者(10)+子(10)+子(10)=家族(50)
というように増加するのであれば(おそらく低賃金の配偶者も、子供も、それなりの、家長に遜色ない剰余労働をする)、剰余労働と賃金との関係(比率)は、
剰余労働/賃金: 20/20 → 50/20
となるので、「その価格は、四労働日が一労働日の剰余労働を超過するのに比例して、下がってゆく」といえる、ということだろうか。ここで「価格は・・・下がってゆく」の意味は、必要労働(賃金)の同じまま、剰余労働(商品の生産量)が増加するので、ある単位量の働きを獲得するための費用(=賃金)が下がる、という意味だろうか3。
尚、同じ箇所について石川康宏研究室というwebサイトに掲載されている論文の記述を見つけたので、共有しておく。
しかし,こうした理論の展開が,現代においてより重要な意味を持つのは,むしろその次の点である。焦点は,こうした複数の収入をもつ労働者家族に対する搾取の分析にある。マルクスはこう述べている。 「たとえば四つの労働力に分割された家族〔の労働力〕を買い入れることは,以前に家長の労働力を買い入れた場合よりもおそらく多くの費用がかかるであろうが,しかしその代わり,四労働日が一労働日に取って代わるのであって,それら労働力の価格は,四労働日の剰余労働が一労働日の剰余労働を超過するのに比例して下がる。一家族が生活するためには,いまや四人が,資本のために,労働だけでなく剰余労働をも提供しなければならない。こうして機械は,はじめから,資本の人間的搾取材料すなわちもっとも独自な搾取分野と同時に,搾取度をも拡大するのである」10)。
>論文のページ: 長時間労働・女性差別とマルクスのジェンダー分析 https://walumono.typepad.jp/1/2007/03/post_5b80.html (日本共産党『前衛』2007年3月号(3月1日発行,第815号),84~105ページに掲載されたものらしい。)
わかりづらいところもあるが,述べられていることの骨組みはおおよそ次のようである。
①従来「家長の労働力」を買うことで得られた剰余労働は,家長一人分のそれでしかなかったが,「四つの労働力」を購入する今では,四人分の剰余労働を資本は手にすることができる。だが,肝心な問題はそれによって,四人に支払う賃金(必要労働)と四人から得られる剰余労働の比率がどのように変わるかという問題である。
②四人に支払う賃金の合計が,家長一人に支払うものより増えたとしても,四人の合計賃金(必要労働)に対する四人の剰余労働の比率が,家長一人の賃金に対する家長一人の剰余労働の比率より高くなっていれば,この家族全体に対する資本の「搾取度」は拡大したことになる。そして,女性や子どもの賃金は「家長」の賃金よりも低いのが通例であるから,実際にも女性や子どもを賃労働者に巻き込む機械の登場は,資本による労働者たちへの搾取を深めるものとなってくる11)。
(20241101_11時頃追記) 『マルクス 資本論』( 佐々木隆治, 角川選書, 2018)の400〜402頁、『資本論』(ドイツ語現行版)の514頁にも、家族形態と家事についての記述がある。一部以下に抜粋。
「資本主義体制のなかでの古い家族制度の崩壊がどんなに恐ろしくいとわしく見えようとも,大工業は,家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程で婦人や男女の少年や子供に決定的な役割を割り当てることによって,家族や両性関係のより高い形態のための新しい経済的基礎をつくりだすのである。言うまでもなく,キリスト教的ゲルマン的家族形態を絶対的と考えることは,ちょうど古代ローマ的,または古代ギリシア的,または東洋的形態を,しかも相ともに一つの歴史的な発展系列を形成しているこれらの形態の一つを,絶対的と考えることと同様に,愚かなことである。また,同様に明らかなことであるが,男女同性の非常にさまざまな年齢層の諸個人から結合労働人員が構成されているということは,この構成の自然発生的な野蛮な資本主義的形態にあってこそ,すなわちそこでは生産過程のために労働者があるのであって労働者のために生産過程があるのではないという形態にあってこそ,退廃や奴隷状態の害毒の源泉であるとはいえ,それに照応する諸関係のもとでは逆に人間的発展の源泉に一変するにちがいないのである。」
Marx, Das Kapital, Bd. 1, MEW, Bd. 23, op. cit., S. 514.
(20241104_1時頃追記) 『マルクス 資本論』( 佐々木隆治, 角川選書, 2018)の557頁以下で、家事労働含め、関連論点についての参考文献が掲載されている。
参考文献
『マルクス 資本論』( 佐々木隆治, 角川選書, 2018)
脚注
[1] 書評も出ている。結城剛志. (2019). マルクス資本論, 佐々木隆治著 [角川選書, 2018 年]. 季刊経済理論, 56(1), 73.( https://www.jstage.jst.go.jp/article/peq/56/1/56_73/_pdf )や、佐々木隆治. (2020). 『マルクス 資本論』 にたいする結城剛志氏の書評へのリプライ. 季刊経済理論, 56(4), 91.( https://www.jstage.jst.go.jp/article/peq/56/4/56_91/_pdf )
[2] (女性の家事評価額は年200万円、男性の3倍超-共働き増でも格差 – Bloomberg https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-09-04/RZTYYIT1UM0W01 )
[3] (大和礼子. (2002). 「家事」 はどのようにとらえられてきたか?:「公共/家内領域の分離」 という社会認識との関連から. 関西大学社会学部紀要, 33(3), 75-135.)(ビーチィ (Beechey,Veronica)の援用)(https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/9355 )
[4] 堀眞由美. (1996). 主婦と家事労働. 立教經濟學研究, 49(4), 30. https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/record/2412/files/AN00248808_49-04_03.pdf
[5] 堀眞由美. (1996). 主婦と家事労働. 立教經濟學研究, 49(4), 39. https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/record/2412/files/AN00248808_49-04_03.pdf
[6] 『家事労働とマルクス剰余価値論』(森田成也 2014 桜井書店)。書評も出ている。
佐藤拓也. (2016). 家事労働とマルクス剰余価値論, 森田成也著,[桜井書店, 2014 年]. 季刊経済理論, 52(4), 95-97.( https://scholar.archive.org/work/to3v7adfubg65empdclq5rzape/access/wayback/https://www.jstage.jst.go.jp/article/peq/52/4/52_KJ00010198871/_pdf)
森田成也. (2016). 『家事労働とマルクス剰余価値論』 に対する佐藤拓也氏の書評に対するリプライ. 季刊経済理論, 53(3), 114.( https://www.jstage.jst.go.jp/article/peq/53/3/53_114/_pdf )
- 斯様な理解で合っているのかどうかも判然としない。勉強不足。 ↩︎
- 家族を労働市場に投ずることによって、家長に払われていた賃金の額面が下がることはあるのだろうか?昔はそうだったのだろうか?マルクスはそういうことを想定していたのだろうか?
例えば、家長(20) → 家長(15)+配偶者(4)+子(3)+子(3)=家族(25) のような感じで。 ↩︎ - 佐々木の『マルクス 資本論』( 佐々木隆治, 角川選書, 2018)での訳(凡例によると、「岡崎訳ないし新日本出版訳〔に〕必要におうじて修正を加え〔たもの〕)では、「その価格は、四労働日の剰余労働が一労働日の剰余労働を超過するのに比例して、下がってゆく」として、価格の対象を「その」という指示語で示しているが、当ブログ本文中にも掲載した石川康宏研究室で引用される訳では、「それら労働力の価格は,四労働日の剰余労働が一労働日の剰余労働を超過するのに比例して下がる」として、「価格」とは「それら労働力の価格」のことであることが明示されている。尚、本文を書いているときには気がついていなかったが、『マルクス 資本論』( 佐々木隆治, 角川選書, 2018)の431頁に「労働力の価格」の定義については詳述されている。 ↩︎