『関心領域』の過大評価と田野大輔の論考への批判(?)
『関心領域』の過大評価と田野大輔の論考への批判(?)
『関心領域』観た。
以下ネタバレ配慮なし。走り書き。

事前情報は、朝日新聞の記事1と、家族のすすめ、のみ。
どちらも、「アーレントの先が示唆される」というようなことを述べていた。
(例の如く、前評判が高い作品は否定的に書いてしまう嫌いがあるのでご容赦を。)
感想。
想像の域を出なかった。
あれなら2時間真っ暗で、溶鉱炉の音だけ鳴らしていればよかったのではなかろうか(というのは言い過ぎだが)。
描写の不可能性と空虚の表現はダニエル・リベスキンドが20年以上前にベルリン・ユダヤ博物館でやった仕事を例にあげるまでもなく反復されつくされているし、またかよという感じが強かった。スピルバーグの『Saving Private Ryan』よろしく、不可能性に挑む段階に移行しても良いのでは? 単に作り手の怠惰にも思えてくる。
ホラー的な演出の上手さは感じた。
良かった点を挙げれば、なかなかヘス一家になかなか共感し難いな、と実感できたことであろうか。アーレント的「悪の凡庸さ」の自分なりの解釈を内面化させている私は、もっとヘス一家に対する共感可能性に開かれているのではないかと考えていた。
しかし、この映画をもって、そしてその共感の困難さをもって、ヘスやアイヒマンを「凡庸でない」とか表現するのは如何なものか。やはり凡庸なのであるというべきに思う。私たちが映画を見てヘス一家に異常性を感じるのは、私たちがそういう価値観の時代・世界に生きているからにすぎないだろう。
私の祖母がテレビを見ながら、何かの犯罪者の罪の言い渡しの裁判のニュースを見て、「刑はそんだけかい」と言った。私は祖母に「じゃあ、どれくらいの罰なら満足なの」と聞いた。祖母は「そんなの知らんわ」と言った。
私の現在住んでいる家と、以前住んでいた家の近くには刑務所がある。知人に刑務所で運動の指導をしている人がいる。
刑務所の近くを車で通る時、我々は笑いながら世間話をして、刑務所に隣接するパン屋の息子とその家族の話をしている。近くにあるのが、死刑刑場ならどうだろうか。
X(旧ツイッター)を見ていると、琉球大学の山本章子氏(国際政治史、外交史)の投稿が目に入った。彼女は性犯罪のニュースを引用し、「ちょんぎれ」と短くコメントしていた2 3 4。
友人含め私たちは、安い服を着て5、メイクをして、コーヒーを飲んでいる。原料は後進国の子供たちがしばしば命を落としながらかき集めていたりする6。
So, 悪は凡庸なのである。
映画のレビューを見ていると、ヘス夫妻は家のすぐ隣で起きている虐殺に「無関心」だった、とする指摘も散見されますが、それは違うと思います。彼らは単に「無関心」だったわけではない。むしろ確信的に虐殺や搾取に加担して、利益を得ている。その上で、そうした犯罪から積極的に目を背け、遮断しているんです。
(関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html)
それは定義の仕方の違いに過ぎないだろう。それをどう呼ぶかという問題だ。積極的な遮断も結局凡庸で、消極的な遮断との差は程度問題に過ぎない。消極的な遮断であれば凡庸で、積極的な遮断であれば凡庸でないというのは、正しい理解ではないだろうし、犯罪への関心の程度も程度問題に過ぎない(しかもグラデーションはかなり曖昧だろうし、解釈にも幅があるだろう)。
また、そもそも我々は悪をどう判断しているのだろうか。
小児性愛者をキモいと言ったり、近親性愛をキモいというのは、我々の現在の価値観だ7。この犯罪者にはこの罰が相応しいと思うのは、我々の外的選好(あるいは嗜虐的快楽)によるものだ8。ユダヤ人を収容所に送る時の精神の働きと如何様な違いがあるだろう。
構造は同じで、時代や社会が我々に与えている価値規範が異なるだけだろう。凡庸というのは、一定の時間や社会の範囲内で入れ替え可能な存在ということだ。社会の成員がある価値規範を届けられて、それに呼応して振る舞っているにすぎない。
アイヒマンやヘスたち親衛隊幹部は、確信的にホロコーストを実行していました。アイヒマンはユダヤ人の強制移送を指揮し、その能力を認められて出世した。ヘスも映画の中で「具体的な指示はアイヒマンから受けるように」という指令を受けていました。アイヒマンを、上からの命令で無理やり動かされているだけの意思のない「歯車」ととらえることは、明らかな間違いです。
(関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html)
・・・
一般に使われがちな「悪の凡庸さ」というのは、「アイヒマンのように普通の人間でも、巨大な悪に加担しうる」という自戒の意味ですよね。それ自体は、前提となるアイヒマン像が妥当とは言えないにしても、それほど有害な見方ではありません。
でも、それを「アイヒマンのように巨大な悪に加担した人物もまた、普通の人間にすぎなかった」と順序を変えてしまうとどうでしょうか。アイヒマンの悪を免罪するような意味合いになってしまいます。
この二つは似ているようで、根本的に違います。後者のような言い方をすると、アイヒマンの罪が矮小(わいしょう)化されかねない。アーレント自身も、アイヒマンを単なる「歯車」とする見方を否定し、その責任を厳しく問うています。
これも小さな表現の違いにすぎないかもしれないが、私はむしろ「アイヒマンの悪」も歯車に過ぎないのだと整理するべきだと思う。「アイヒマンの悪」を歯車の一つと表現することに否定的な立場もあるようだが、その根拠が、そう表現すると「アイヒマンの悪を免罪するような意味合いになってしま」うからだとすると、陳腐で、大衆の合理的理解力を舐めた態度でなかろうか。冤罪するような意味合いになるからどうだというのだろうか9 10。
自然法則のように「悪」がこの世界に明快に存在し、法はそれを解き明かして、罪人を罰しているとでも考えているのだろうか11。
ヒヨコを生まれてすぐ選別し、オスはダンボールにどんどん重ねていき、下の方から圧死させていったりする。そのまま行けば問題なく生まれる胎児を堕胎したりする。オランウータンを檻の中に入れ皆で見物する。障害児だと検診でわかれば、あきらめたりする。沖縄人を博覧会に出品したりする。
「人間」の範囲は採用する条件で異なる。見ている世界が異なるだけなのだ。そして、人為的に定められた人間の範囲を基準に「悪」が考察される。
その上で、「悪」に対する遮断が行われることがある。「悪」を積極的に遮断する人は、「この罪人にはこの罰が相応しい」とか、女性の自律的な生のためならやむを得ないとか、だから生き物を食べる前にいただきますといって命に感謝するのだと12か、そういって積極的に理由づけをして、「悪」を遮断する。消極的に遮断するというのは単に無知な人々のことだろうか。
人はその時代・社会の価値観で動く。その条件下でどの人がどう振る舞うかというのは、いわば確率論的問題だ。アウシュビッツの塀の中にリンゴを隠したり、死刑廃止運動に参加したりする。環境保護活動や難民保護に人生を捧げたりする。そういう人もいるし、そうではなく、ただ、与えられた構造・社会の上で呑気に生きている人もいる。死刑執行人もいる。屠殺場の職員もいる。人工妊娠中絶をする医者もいる。ガザに爆弾を降らせる政府もある。もっと身近に殺人者も性犯罪者もいる。どれも皆、社会の歯車である。どれが歯車でどれが歯車でない悪かが、アプリオリに決まっている、あるいは第三者の審級が判断できるとの妄想は甚だおかしい。田野大輔の採用する倫理基準で歯車とそれでない悪とを峻別しようとするなら、それも良いが、それはただの定義と名付けの問題だろう。
ある社会規範の下で、人間社会の一定割合は、積極的に悪も行うし、消極的に悪も行う。そういう意味で凡庸なのである。
勿論、この私の見方からすれば、連続殺人犯も、レイプ犯も、ヒトラーも皆凡庸なのだ。尤も、これも定義と名付けの話にすぎないのだが。あらゆる悪は凡庸なのだと見るか(私)、凡庸な悪と凡庸でない悪があるのだと見るか、その違いだ(あるいはどこまでを歯車の働きとみるかの相違)。ただ、やはり疑問なのは、その凡庸さの裁定者は誰なのか、基準は何処にあるのかということだ。
ヒトラーにも優しい心があった、彼も邪悪な意図に基づいてホロコーストを起こしたわけではない――。そういった言説は、免罪符として使われた「悪の凡庸さ」が行き着いた先ではないでしょうか。私が「悪の凡庸さ」をクリシェ(決まり文句)として用いることを批判しているのは、ホロコーストという未曽有の悪を矮小化することにつながりかねないからです。
(関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html)
未曾有の悪は凡庸ではない(矮小でない)と考えることに驕りがあるのではなかろうか。私は未曾有の悪は凡庸なのだと考える。そしてその前提の下で必要なのは、あらゆる罪人が見えない免罪符の可能性をその手に握っているという認識だろう。それが無辜の人が握る免罪符として機能するか、それとも未曾有の悪人が握っている紙切れとみるかは、我々の採用する規範によって決せられる。
そういう意味では、精神的な免罪を、全ての歴史や罪人に与えるべきなのだ。そして、こう言うべきだ。「あなたは違った時代や世界では免罪されているかもしれないが、私たちの現在の規範において、あなたに罰を与える」と、あるいは「あなたは確率論的分配において、根源的悪を犯した。あなたがこの世に居なくても誰かが同じような罪を犯したかもしれないが、しかし社会統制のために他の誰でもなくあなたに罰をあたえる」と。
そういう態度がなく、善悪が絶対的に不変のものだと信じる処に、もしくは、社会で善悪とされているものを絶対視してそれに唯々諾々と従って積極的あるいは消極的に日常を生きる所に、またアウシュビッツも出現するのだ。あなたの家の裏にはアウシュビッツはないだろうか。「あなた」には、犯罪者も模範市民も含まれる。
あなたが確信的に悪に参加しているか、消極的に悪に参加しているかは、将来の人類が解釈していくに過ぎない。解釈者の表現に過ぎない。そして確信的な悪の参加者は、凡そいつの時代も一定割合で私たちの社会に存在する。そこに凡庸さがある。我々が誰かを裁くのは、絶対的な悪の基準を参照しているのではなく、その時代・社会の悪の基準を参照しているのだ。そういった慎ましさを持たずに、絶対的な悪であるものとそうでないものを我々が峻別しているかのように思い込むこと、ここに誤謬と危険があるのだろう。
アーレントは、ホロコーストの加害者を理解不能なモンスターとして見る危うさを指摘して、「悪の凡庸さ」の概念を提起した。しかし他方で、彼らを理解可能な対象として捉える、共感の対象にすることも大きな危険をはらんでいます。それは彼らを免罪することとそう遠くない。
(「関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html)
ここが、私が田野氏に賛同できない一番のポイントだろう。私はどんな「悪」であろうと、それを共感の対象にすることからはじめるべきだと考えている。理解可能な対象として捉えることからはじめるべきだと考えている。方法論の違いかもしれないが、ここがネックなのかもしれない。
(20240614・午前8時頃追記)
田野曰く、「ヘスは妻や子どもを愛する良き父親として振る舞う一方で、家族の目が届かないところで買春をしているような描写もありました。自分の思い通りになる子どもには愛情を注ぐけれど、それ以外には非常に冷酷な、二面性のある人物として描かれています。」13とか、余りにも良い加減な感想じゃなかろうか。家庭にやさしくしながら買春をしているなんて、何処までもふつうのおっさんの描写だろう。これの何処が「非常に冷酷」で「二面性のある人物」なのか。田野氏が、買春をしている人全員を「冷酷」と評しているのなら理解できるが。この部分の記述だけでも、正直田野氏の理解の厳密さや態度を疑ってしまう。(20260825_2315追記_この部分について、海外の公的レーティング機関は「囚人に性行為を強制していることが示唆される」と説明していた。査読誌 Journal of Genocide Research の映画論でも、あの場面は収容者に対する性的搾取・性的暴行として分析されていた。(Full article: “Zone of Interest” as an Ethnography of Indifference https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/14623528.2024.2350147)(The Zone of Interest | Age Rating and Content Warning | Classification Office https://www.classificationoffice.govt.nz/find-a-rating/quick-takes/the-zone-of-interest/))
2026年追記――アーレントを実際に読むと、なぜ近年の解説とこれほど印象が違うのか
※以下は、2024年6月に本記事を書いた後、ハンナ・アーレント/大久保和郎訳『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】』(みすず書房、2017年)を通読した際に生じた疑問を、今回あらためて英語原文(1964年改訂増補版)の該当箇所、アーレントの関連論文・講演、近年のアイヒマン研究・アーレント研究に照らして検討した追記である。記事脱稿後に英語版全体を通読したわけではなく、当時英語で読んだのは冒頭部など一部である。本追記では、私が実際に通読した日本語新版と、今回論点ごとに照合した英語原文とを区別して扱う。
なお、大久保和郎訳2017年新版の副題は「悪の陳腐さについての報告」であるが、本稿では、日本語圏で広く定着している議論上の表現として「悪の凡庸さ」も用いる。以下で banality という場合、この訳語上の差異自体を論点とするものではない。
旧稿には、私自身の概念整理が不十分だった箇所もある。そのため、ここでは旧稿をそのまま擁護するのではなく、現在確認できる一次資料と研究史に即して論点を組み直したい。また、本追記が直接検討するのはアーレント解釈とその紹介の問題であり、旧稿に含まれる道徳相対主義その他の独立した哲学的主張まで、ここで立証されたと考えるものではない。
今回あらためて明確にしておきたいのは、私の違和感の中心は「歯車」という一語の意味ではないということである。より根本的には、『エルサレムのアイヒマン』という一冊を通して形成される人物像・問題意識と、近年しばしば提示される「アーレントは実はアイヒマンを凡庸な歯車とは見ていなかった」といった要約との間に、かなり大きな印象の落差があることが問題なのである。
1 本書を通読して最も驚いたこと――「凡庸さ」という語より先に、その人物像が累積している
近年のアイヒマン研究やその紹介に触れていると、しばしば次のような説明に出会う。
アイヒマンは、何も考えず上司の命令に従っただけの平凡な小役人ではなかった。
彼には野心があり、専門家意識があり、組織能力があり、ときには上司の命令にも抵抗した。
したがって、一般に流布してきた「凡庸な歯車としてのアイヒマン」は、アーレント自身の描いた人物像とも、現在の歴史研究とも一致しない。
この説明に含まれる個々の命題には、重要な根拠がある。David CesaraniやBettina Stangnethらの研究によって、歴史上のアイヒマンを、反ユダヤ主義的確信も主体性も乏しい、単なる命令遂行者として描くことは困難になった。Stangnethがサッセン・インタビューなどの戦後資料を広範に検討したことは、とりわけ重要である。[^1] またアーレント自身も、ウィーン時代のアイヒマンについて、組織することと交渉することに特別な能力を発揮したと書いている。[^2]
しかし、私が日本語新版を一冊通して読んだときに受けた印象は、この種の解説から予想していたものとはかなり違っていた。
ここで一つ、あらかじめ限定しておきたい。「悪の凡庸さ」という語それ自体が、本書の各章で繰り返し定義され、体系的な理論として展開されているわけではない。アーレントは本編末尾、Epilogueの直前で、アイヒマンの最期の決まり文句を受けて the fearsome, word-and-thought-defying banality of evil と書く。そしてPostscriptでは、自分が banality of evil と言うとき、それは裁判で目の前に現れた現象を「厳密に事実の水準」で指しているのだと説明し、その現象から得られるものを一つの lesson と呼び、それは現象の「説明」でも「理論」でもないと限定している。[^3] したがって、『エルサレムのアイヒマン』全体を「悪の凡庸さという理論を演繹的に証明する本」と呼ぶのは不正確である。
しかし、そのことと、本編末尾で「悪の凡庸さ」と名づけられ、Postscriptで説明・限定される現象を理解させる人物像が、本書の叙述を通じて累積的に形成されていることとは別である。
本書の広い範囲で繰り返し現れるのは、例えば次のような描写である。
- アイヒマンは精神病理的な怪物としては捉えられず、精神科医らから「正常」と判断されていた。
- 裁判官たちは、平均的で「正常」な人物が善悪を区別できない状態に陥りうるという問題を十分に受け止められなかった、とアーレントは評する。
- アイヒマンはナチ体制の内部では「例外ではなかった」という意味で normal だったとされる。
- 彼の言語は決まり文句に満ち、他者の立場からものを考えることができないという特徴が繰り返し描かれる。
- 彼は自分自身で決定することを避け、命令によって自分が「カバー」されていることにきわめて注意し、自発的な提案を好まず、「指令」を必要としたと書かれる。
- 彼の良心は、ナチ体制の法と規範の内部で反転し、本来の「汝殺すなかれ」ではなく、殺害を遂行することの側に義務意識が形成されたと分析される。
- それにもかかわらず、彼は出世を望み、自分の専門性に誇りを持ち、職務上の縄張りを守り、大量移送を熱心かつ几帳面に遂行した。
- Postscriptでは、その人物のうちにイアーゴーやマクベスのような悪魔的・犯罪的な「深さ」を見いだすことはできず、問題は愚かさではなく
sheer thoughtlessnessだったと総括される。[^4]
これらは、著作の片隅に一度だけ置かれた同義反復ではない。精神医学的正常性、決まり文句、コミュニケーション不能、職業的野心、命令への依存、ナチ法秩序の内部での良心、責任論という異なる文脈から、同じ人物像が少しずつ組み立てられている。
したがって、私が本書を通読したときに受けた印象を、より正確に言い直すなら、次のようになる。
本書は、「banality」という語を全編の理論用語として反復する本ではない。しかし、本編末尾で「悪の凡庸さ」と呼ばれ、Postscriptで事実水準の現象として説明・限定されるものを理解させる人物描写が、著作のかなり広い範囲にわたって累積している。
この点が、私にとっては重要だった。
近年の解説だけを読んでいると、「凡庸なアイヒマン」は後世の通俗化によってアーレントに押しつけられた像であり、アーレント自身の本文を読めばむしろその逆が見えてくる、という印象を持ちやすい。しかし実際に本書を一冊読むと、少なくとも私は反対の驚きを経験した。そこには、アイヒマンの能動性を示す記述が確かにあるにもかかわらず、巨大な犯罪が、日常的な野心、職務への勤勉さ、決まり文句、権威への順応、判断の欠如と両立してしまうことが、繰り返し描かれていたからである。
ここで「凡庸」という語を、「無害」「善良」「能力が低い」「誰でも必ず同じ行為をする」と読み替えてはならない。アーレントの banality はそのような統計的平均性や責任軽減を意味してはいない。しかし、本書の中心的な不気味さの一つが、「これほど巨大な悪の担い手に、期待されるような悪魔的な深さが見いだせない」という方向にあることは、本編末尾とPostscriptの双方の明文ともよく整合する。[^5]
2 「熱心だった」ことと「凡庸だった」ことは、アーレント自身の叙述では対立していない
この点を最もよく示すのは、アイヒマンの「熱意」に関する記述だと思う。
アーレントは、アイヒマンが最終解決の遂行に熱心だったことを否定していない。それどころか、かなり早い箇所で、彼は命令された何百万もの人々を死へ送り込む仕事を、great zeal and the most meticulous care――大きな熱意と最大限の几帳面さをもって――遂行しなかったなら、むしろ良心の呵責を覚えただろう、と書いている。[^6]
ここは重要である。
「アイヒマンは熱心だった」という事実は、アーレントの中で「だから凡庸ではない」という結論へ接続されていない。むしろ、恐るべき仕事に対する勤勉さそのものが、体制に順応した良心や職業倫理の内部で成立している。
同じことは、ヒムラーがユダヤ人殺害の停止に動き始めた時期のアイヒマンにも言える。アイヒマンはそれに抵抗し、場合によっては総統から新たな決定を得るとまで主張した。これは一見すると、単なる命令遂行者像への決定的な反証に見える。
しかしアーレント自身は、この出来事を単純に「熱狂的反ユダヤ主義者だった証拠」として処理していない。彼女は、裁判官たちがそこに狂信を見たことに距離を置き、アイヒマンにとって総統の言葉が法の最高規範であり、ヒムラーの方針転換よりも上位にあったという、彼なりの「良心」と法意識の問題として理解しようとしている。[^7]
つまり、アーレントの叙述内部では、
熱心であること
自分の職務上の利益や縄張りを守ること
ときに直接の上司と緊張すること
体制の目的を自ら根本から判断しないこと
思考の欠如
が相互排他的な特徴として扱われていない。
この点を落としたまま、「近年の研究でアイヒマンの熱意や主体性が判明した。したがってアーレント的な凡庸な歯車像は崩れた」と要約すると、少なくともアーレント自身が熱意と凡庸さをどのような関係で描いたのかが見えなくなる。
さらに、移送開始期の記述は、この問題を別の角度から示している。アーレントはアイヒマンについて、never made a decision on his own、常に命令によって「カバー」されていることに極度に注意し、自発的な提案を好まず、いつも directives を必要としていた、と書く。そのような人物が、ある一件で命令に反するイニシアティヴを取ったことを、「最初で最後」の例外として紹介している。[^8]
もちろん、この一文だけで歴史上のアイヒマンの全行動を「受動的」と判定することはできない。しかし、逆に言えば、この記述をほとんど背景に退け、「アーレント自身も能動的なアイヒマンを描いていた」とだけ紹介することも、本書の人物描写の重心を正確には伝えない。
私には、アーレントのアイヒマン像は、
能動的か、受動的か
という一つの軸では十分に捉えられないように思われる。
彼は局所的には熱心で、有能で、工夫し、競争し、昇進を求める。しかし、より根本的な判断の次元では、与えられた目的や法秩序そのものを自分の判断対象にしない。局所的な能動性と、根本的な他律性・思考の欠如が同居する。
そう理解すると、アイヒマンの能動性は「悪の凡庸さ」への単純な反証ではなく、むしろ、凡庸な悪が無気力・無能・無関心の形だけを取るわけではないことを示す材料にもなりうる。
3 個々には正しい説明でも、前景と背景を入れ替えると著作全体の印象は逆転する
ここで、私が本当に問題にしたい点に戻りたい。
次のことは、いずれも事実である。
アイヒマンには野心があった。
組織能力・交渉能力があった。
専門家としての縄張り意識があった。
ときには上位者の方針に抵抗した。
アーレントはアイヒマンの個人的責任を厳しく問うた。
後世の史料は、アイヒマンの反ユダヤ主義的自己理解や主体性を、アーレントが知りえた以上に明らかにした。
しかし、これらの命題が個別に真であることと、それをどのような順序と重みで紹介すれば『エルサレムのアイヒマン』という著作全体を忠実に伝えられるかは、別問題である。
例えば、これらを前景に置いて、
「アーレントのアイヒマンは凡庸ではなかった」
「アーレントは歯車説を否定した」
「アーレントが本当に描いたのは、能動的な組織人だった」
という形を本書の入口にすると、本書を未読の読者が予想する内容と、実際に一冊を読んだときに出会う叙述との間に、相当大きな隔たりが生じうる。
これは、引用の捏造や単純な事実誤認とは別種の問題である。
私はこれを、**解釈上の「前景と背景の逆転」**と呼びたい。
ある著作には、中心的な論旨を限定する文章、例外を示す文章、誤解を防ぐ文章が当然含まれている。その一つ一つは重要である。しかし、それらの限定的・修正的記述を解釈の「表紙」に置き、著作全体を通じて累積的に形成される人物像を背景に退ければ、個々の引用が正確でも、未読者に伝わる著作の全体像は反転しうる。
学術的なテクスト解釈では、文の真偽や引用の正確さだけではなく、その記述が著作全体の中でどの程度の重みを持つかも問題になる。とりわけ一般読者向けの解説では、その責任は大きい。読者の大多数が原資料を一冊通読しない以上、見出しや短い要約によって形成される「全体像」が、そのままアーレント理解になりやすいからである。
したがって、私が本書を読んだときに抱いた「聞いていた話とかなり違う」という感覚は、単なる素朴な読後感として退けるべきではないと思うようになった。
むしろ問うべきなのは、
現在流通している解説は、個別命題として正しいだけでなく、著作全体の前景と背景の比率まで適切に伝えているだろうか。
ということである。
4 田野大輔氏の「普通の人間でも」/「普通の人間にすぎなかった」という区別について
この問題が具体的に現れている例として、田野大輔氏の『関心領域』についての朝日新聞インタビューを改めて検討したい。
田野氏は、一般に流布する「悪の凡庸さ」を、
「アイヒマンのように普通の人間でも、巨大な悪に加担しうる」
という自戒として理解するなら、それほど有害ではないとする一方、
「アイヒマンのように巨大な悪に加担した人物もまた、普通の人間にすぎなかった」
と順序を変えると、アイヒマンの悪を免罪し、罪を矮小化する方向へ向かいうると述べている。そして続けて、「アーレント自身も、アイヒマンを単なる『歯車』とする見方を否定し、その責任を厳しく問う」と説明する。[^9]
ここでまず、公平のために明記しておかなければならないことがある。
田野氏はその前の文脈で、自らが批判する「歯車」を、上からの命令で無理やり動かされているだけの、意思のない存在という意味で説明している。したがって、田野氏の「単なる歯車」という一語だけを切り出し、「官僚制における構造的な歯車性まで田野氏は否定している」と批判するのは適切ではない。前後の文脈まで読めば、この発言はかなり擁護できる。
また、「普通の人間だった」という言葉が、「だから誰でも同じことをした」「だから仕方がなかった」「だから責任は小さい」という免責へ滑る危険への警戒も、軽視すべきではない。Christopher Browningの Ordinary Men が示すように、「ordinary」という分析カテゴリーを用いることは、加害者の責任を消すことと同義ではないが、その受容の仕方によっては安易な自己同一化や免責へ転用されうる。[^10]
それでも、田野氏の二つの命題の対置には、私はなお疑問を感じる。
「普通の人間でも巨大な悪に加担しうる」は一般的・可能的な命題であり、「巨大な悪に加担したアイヒマンも普通の人間だった」は個別的人物についての記述命題である。この二つは論理的な反対命題ではない。
むしろ、アイヒマンの事例から前者を導くのであれば、後者の何らかの意味での真実性が前提になる。
そして、「普通の人間だった」こと自体から、「責任が軽くなる」という結論も論理的には導かれない。その推論には、
普通の人間であることは、責任を減少させる
という追加の前提が必要になる。
アーレントの本文は、むしろこの追加前提を拒む方向に読める。
彼女は、裁判官たちが、an average, "normal" person が善悪を区別できなくなることを十分に受け入れられなかったと書き、アイヒマンはナチ体制の内部では no exception という意味で normal だったと述べる。[^11] ここでの normal を、「あらゆる社会で統計的に平均的な人」「われわれの誰もが同じ条件なら必ず同じことをする人」と拡張してはならない。しかし少なくとも、巨大な犯罪を行った人物を非人間的な怪物としてしか理解できない、という発想をアーレントが採っていないことは明らかである。
したがって、
巨大犯罪を行ったアイヒマンも、怪物ではなく人間として理解可能であった
という命題そのものを、アーレントに反する免罪論として扱うのは難しい。
むしろ、アーレントの責任論の厳しさは、怪物だから有罪なのではなく、人間として、判断し、支持し、参加し、行為した者を人間として裁く点にある。
一般読者向けの説明として問題が生じるのはここである。
田野氏の個々の発言は、前後文脈を丁寧に読めば限定つきで擁護できる。しかし、「普通の人間にすぎなかったという読みは免罪に傾く」「アーレント自身も単なる歯車説を否定した」という部分だけが強く前景化されると、本書を未読の読者には、
アーレント自身も、普通で凡庸な組織人としてアイヒマンを見ることには否定的だった
という全体像が形成されうる。
私は、その全体像の方が『エルサレムのアイヒマン』を一冊読んだときの印象から遠いのではないか、と考えている。
5 「歯車」は本題そのものではない――しかし前景・背景の逆転をよく示す
ここで「歯車」の問題に戻る。ただし、今度はこれを追記全体の中心ではなく、前景と背景の逆転がどのように起こるかを示す具体例として扱いたい。
「歯車」という言葉には、少なくとも三つの異なる意味を区別できる。
- 構造的・機能的な歯車性――大きな組織の中で一定の機能的位置を占め、その機能が原理的には別人によって代替可能であること。
- 心理的に受動的な小さな歯車像――自ら何も判断せず、具体的命令を機械的に遂行するだけの人物であること。
- 免責としての歯車論――「自分は歯車だったのだから責任はない」と主張すること。
この三つは同じではない。
『エルサレムのアイヒマン』第IV章でアーレントは、アイヒマンが弁護側のいうほど小さくなかったと明記する。彼は検察が描くほど大物ではなかったが、neither was he as small as the defense wished him to be とされる。[^12]
Postscriptではさらに明瞭である。弁護側がアイヒマンを最終解決の機械の tiny cog とし、検察側が逆に中心的な motor として描いたことを受け、アーレントは the whole cog theory is legally pointless と書く。重要なのは legally である。[^13]
アーレントはその直後、巨大な官僚機構による犯罪では多数の歯車が存在することを前提とし、法廷では all the cogs in the machinery, no matter how insignificant が、再び perpetrators, that is to say, into human beings として扱われなければならない、と述べる。そしてさらに、全体主義的統治、さらにはおそらく官僚制一般の本性として、人間を functionaries and mere cogs in the administrative machinery へ変えることを政治学・社会科学上の問題として明記している。[^14]
この一連の文章からは、少なくとも次の区別が読み取れる。
人間は社会学的・政治学的なシステム記述では歯車として機能しうる。しかし、法廷ではその構造記述を免責へ転化せず、歯車を再び個々の人間・行為者として取り出して責任を問わなければならない。
この区別は、Postscriptだけの偶発的な言い回しではない。
1963年、Samuel Graftonの批判への回答草稿でアーレントは、システム全体を見ると各人は大なり小なり歯車として現れるが、裁判では個人を自由に行為する者として見る必要がある、という二つの観点を区別している。[^15]
さらに1964年の講演 “Personal Responsibility under Dictatorship” では、政治システムを政治学的に記述する際に人間を cogs and wheels として語ること、官僚制では各人が交換可能であることを認める。第三帝国については、ヒトラー以外の公的事柄に関与した者を、本人が自覚していたかどうかにかかわらず、システム上の歯車として記述するほどである。[^16]
それにもかかわらず、講演の後半では、官僚制の構成員の行為を単なる obedience としてではなく、overall support for a common enterprise として考える方が責任論として適切だと述べる。[^17]
これは非常に重要である。
アーレント自身の議論では、
構造上の歯車であること
共同事業を支持し参加すること
その結果について個人的責任を負うこと
が両立している。
したがって、「アーレントは歯車説を否定した」とだけ言えば、何を否定したのかが曖昧になる。
- 受動的で責任の乏しい
small/tiny cogへの自己矮小化を否定した――これは正しい。 - 歯車性を法的・道徳的免責に使うことを否定した――これは明確に正しい。
- 官僚制における構造的な歯車性そのものを否定した――これは、Postscript、Grafton回答草稿、1964年講演を合わせて読むかぎり、支持しにくい。
ここで重要なのは、「アーレントは歯車だったと言った/言わなかった」というラベル争いではない。問題は、限定された意味で正しい「not a small/passive cog」が、一般向けの要約では「not a cog in any sense」に見える形へ圧縮されることがあるという点である。
6 反対説を最も強い形で読む――それでも残る問題
もちろん、ここまでの議論には強い反論が可能である。
Shmuel Ledermanは、アーレントとBrowningの関係を再検討した近年の論文で、アーレントを単純な cog-in-the-machine thesis の論者として読むことを明確に批判している。Ledermanが強調するように、アーレントにとって「ただ命令に従った」という説明だけではアイヒマンを十分に説明できず、彼の熱意や責任を消してはならない。[^18]
この点には、私は基本的に同意する。
もし cog-in-the-machine thesis を、
個人の判断、支持、野心、能動性、責任をすべて構造へ還元し、アイヒマンを意思のない機械部品として説明する理論
という意味で用いるなら、アーレントはそのような理論を採っていない。
しかし、ここから、
アーレントはシステム水準での歯車性まで否定していた
という結論は出ない。
むしろKei Hirutaは、この点を非常に明瞭に整理している。Hirutaは、アーレントがアイヒマンを「small cog」とみなしたという理解を退けながら、同時に、最終解決の基本方針を決めるより行政的実施に主として関わったという意味で、アイヒマンの役割には cog-like な側面があったと述べる。[^19]
この整理は重要である。
cog-like であることと、small-cog theory を拒むことは両立する。
したがって、私がここで主張したいのは「最近の研究はすべてアーレントを読み違えている」ということではない。英語圏の研究自体にも、この区別を明示する読みが存在する。
Benjamin A. Schupmannが、アーレントのthoughtlessnessと決定論・道徳責任の問題を「歯車」的説明との関係で論じていることも、構造的説明と責任論が必ずしも二者択一ではないことを示す一例である。[^20]
またDavid Lubanは2026年の Powers of Judgment で、アーレントへの代表的な批判を再検討し、Stangnethによる新史料を重く受け止めながらも、アーレントのthoughtlessnessやbanalityについての洞察がそれによって直ちに破綻するわけではないと論じている。[^21]
つまり、現在の研究状況そのものが、
昔は「凡庸な歯車」と誤解されていたが、現在は「非凡庸で能動的な主体」が正しいと確定した
という一本線で表現できるほど単純ではない。
7 実在のアイヒマンを訂正することと、「アーレントが何を書いたか」を訂正することは別である
ここで、研究史上の最も重要な区別を明確にしておきたい。
次の二つは、別の問いである。
A 歴史上、実在したアイヒマンはどのような人物だったのか。
B アーレントは1963–64年の『エルサレムのアイヒマン』で、どのようなアイヒマン像を提示したのか。
Aについて、後世の研究がアーレントを訂正することは当然ありうる。
Stangnethが利用したアルゼンチン時代の資料など、アーレントが裁判報告を書いた時点で十分に利用できなかった史料によって、アイヒマンの反ユダヤ主義、自己演出、思想的自己理解、戦後の発言が明らかになった。歴史学は、新史料によって過去の人物像を更新するべきである。
しかし、Aが更新されたことから、Bが自動的に決まるわけではない。
後世の史料によって、
アーレントのアイヒマン像は歴史的には不十分だった
と批判することと、
アーレント自身も本当はその新しいアイヒマン像を描いていた
と解釈することは、まったく別の主張である。
前者が正しくても、後者は別途、1963–64年のテキストから論証されなければならない。
この区別を曖昧にすると、歴史研究上の正当な人物像修正が、過去のテキストそのものの意味を書き換える方向へ逆流する。
したがって、私が現在最も重要だと考えている方法論的原則は、次の一文に集約できる。
後世の史料によってアーレントのアイヒマン像を訂正することと、アーレント自身がどのようなアイヒマン像を提示したかを解釈することは別問題である。前者が正しくても、後者を遡及的に書き換えてはならない。
8 研究史の「揺り戻し」は、どこでオーバーシュートしうるのか
では、なぜ私が近年の解説から、本書を読んだときとは反対に近い印象を受けていたのか。
研究者の悪意や意図的な曲解を想定する必要はない。もっと通常の研究史的過程で説明できるように思う。
第一段階では、アーレントの「悪の凡庸さ」が通俗化された。
アイヒマンは平凡な小役人だった。
何も考えず命令に従った。
官僚制の歯車だった。
だから普通の人間なら誰でも同じことをしかねない。
という一枚岩の図式である。
この図式は、アーレント自身の複雑な責任論を単純化しているし、現在のアイヒマン研究にも耐えない。
第二段階では、当然ながらこの通俗像への修正が起こる。
アイヒマンは野心的だった。
反ユダヤ主義を持っていた。
組織能力があった。
熱心に働いた。
ときに自発的に行動した。
これは重要な是正である。
しかし、学説史では、強く定着した単純化を訂正するとき、修正命題そのものが新しい「表紙」になりやすい。
すると、
「アイヒマンは受動的な小さな歯車ではなかった」
という限定された命題が、
「アイヒマンは歯車ではなかった」
へ、さらに場合によっては、
「アーレントのアイヒマンは凡庸ではなかった」
へと広がって見える。
私は、この現象を研究史的な揺り戻しのオーバーシュートとして理解するのが、最も公平ではないかと思う。
ここで問題にしているのは研究者の読解能力ではなく、何を研究上の新規性として前景化するかという問題である。
従来の通説がAを強調していたなら、研究は「実はBだった」という修正を前面に出す。そのこと自体は学問として自然である。しかし、専門研究における修正命題を一般向けに一文で紹介するときには、BがAをどこまで否定し、どこからは両立するのかを失わないようにしなければならない。
アイヒマンの能動性と凡庸さ、組織能力とthoughtlessness、構造的歯車性と個人責任は、まさにそのような関係にある。
9 森川輝一論文は、この「重みづけ」の問題をむしろ可視化している
この点で非常に興味深いのが、森川輝一「政治思想研究における官僚制の不在、あるいは〈鉄の檻〉の呪縛――〈悪の凡庸さ〉問題を導きとして」である。[^22]
森川氏は、アーレントのアイヒマンが「受動的な歯車」ではなく、野心や能力を持つ能動的な組織人だったと強く論じる。その読みには、『エルサレムのアイヒマン』本文中に明確な根拠がある。
さらに重要なのは、森川氏がPostscriptにある functionaries and mere cogs の箇所も明確に把握したうえで、それを本文の能動的組織人像とは異なる仕方で評価していることである。
したがって、ここで検討すべきなのは、森川氏が当該箇所を見落としているか否かではなく、同一著作の中に存在するこれら二種類の記述に、解釈上どのような重みを与えるべきかである。
森川氏は、本書の具体的な人物描写としては「能動的な組織人」を前景化し、Postscriptでアーレントが官僚制一般について人間を「単なる歯車」にすると述べる箇所については、アーレントの近代官僚制理解の過度な単純化として批判的に処理する。つまり、テキスト内部の二つの層に異なる評価を与えている。
これは、専門研究として十分に成立しうる解釈方針である。
しかし、まさにそのことが、私の違和感の所在を明確にする。
森川氏のような読みから、一般向けに、
「アーレントをちゃんと読めば、アイヒマンが歯車ではなかったことは明らかだ」
という一文だけを抽出したとすれば、それはもはや単なるテクストの要約ではない。人物描写を理論記述より重く評価し、後者をアーレント自身の理論的弱点として処理する、という解釈上の選択を経た結論である。
この選択自体が不当だと言いたいのではない。
問題は、それが選択であることを消して、アーレントの「素の本文」が最初から一義的にそう語っているかのように伝えることである。
本書本文、Postscript、Grafton回答、1964年講演を続けて読むと、アーレントが「能動性」と「歯車性」、「構造」と「責任」を単純な二者択一として扱っていないことは、むしろかなり明瞭である。
したがって、森川論文は、私の批判の「反例」というより、専門研究における解釈上の重みづけと、一般読者向けの著作要約とを区別すべきことをよく示す資料だと現在は考えている。
10 旧稿の「凡庸=入れ替え可能」という私自身の定義は訂正する
ここまで近年の解説を批判してきたが、旧稿の私自身の概念整理にも明確に訂正すべき点がある。
旧稿では私は、「凡庸」を「一定の時間や社会の範囲内で入れ替え可能な存在」と定義した。
これは、アーレント自身の banality の定義としては不正確である。
Postscriptでアーレントが直接強調するのは、悪魔的・悪人的な深さの欠如、決まり文句、現実との距離、他者の立場から考えることのできなさ、そして sheer thoughtlessness である。[^23]
したがって、
凡庸さ=代替可能性
と同義に置くべきではない。
ただし、代替可能性という私の旧稿の直観が、アーレントとまったく無関係だったわけでもない。
前述した1964年講演では、官僚制の各構成員が、システムを変化させることなく別人へ交換可能であることが、まさに cogs and wheels の比喩と結びつけて論じられている。[^16]
したがって、現在なら次のように整理する。
代替可能性は「悪の凡庸さ」そのものの定義ではない。しかし、アーレントの官僚制論・歯車論・責任論を介して、「悪の凡庸さ」の問題と接続しうる概念である。
この訂正は重要である。近年研究の前景化を批判する以上、自分自身もアーレントの言葉を独自の定義へ置き換えないようにしなければならない。
11 結論――私が問題にしたかったのは、「正しい一文」が著作全体を逆向きに見せることである
以上の検討を踏まえると、現在の私の結論は、以前より限定されているが、その分はっきりしている。
まず、近年の歴史研究による修正の多くは受け入れるべきである。
歴史上のアイヒマンは、意思を失った無能な小役人ではなかった。反ユダヤ主義、野心、専門家意識、組織能力、競争、イニシアティヴがあった。アーレント自身も、そのうち相当部分を本文に書いている。
また、アーレントはアイヒマンの個人的責任を少しも消していない。歯車性を免責に使うことを明確に拒否している。
したがって、
「アイヒマンは何も考えず、上から言われた通りに動いただけの無責任な小さな歯車だった」
という通俗像をアーレントそのものとして提示するのは不正確である。
しかし、そこから逆に、
「アーレントのアイヒマンは凡庸ではなかった」
「アーレントは歯車像を否定した」
「アーレントが本当に描いたのは主体的で能動的な組織人だった」
という命題を本書の「表紙」に置くと、別方向の単純化が生じる。
本書を一冊通して読むと、正常性、例外でなさ、決まり文句、他者の立場から考えられないこと、命令と指令への依存、職業的野心、良心の順応、悪魔的深さの欠如、thoughtlessnessが積み重ねられている。アイヒマンの能力と熱意は、その人物像を打ち消す反証としてではなく、その人物像の内部に置かれている。
だからこそ、私には『エルサレムのアイヒマン』は、
「凡庸な歯車という俗説を解体する本」
としてよりも、
「巨大な悪が、いかに日常的で、職業的で、権威順応的で、しかも責任ある人間の行為として成立しうるのかを、アイヒマンという一人の人物を通して不気味なまでに描く本」
として読めたのである。
この読みを唯一の正解だと主張する必要はない。アーレントのアイヒマン像には内部的緊張があり、歴史的にも訂正されるべき点がある。近年研究がそれを修正したことは大きな成果である。
しかし、一般読者にアーレントを紹介するときには、別の責任があると思う。
個々の記述が正しいことと、著作全体の表象を忠実に伝えていることは同じではない。
限定的・修正的な一文を前景に置き、それが本書全体の代表命題であるかのように提示すれば、引用自体に誤りがなくても、未読者が受け取るアーレント像は実際の読書経験とほとんど逆になることがある。
私が本書を通読したときに感じた違和感は、結局ここにあった。
それを現在、最も慎重かつ強く表現するなら、次のようになる。
通俗的な「受動的な小役人アイヒマン」像への学術的な修正は必要である。しかし、その修正が「アーレント自身はアイヒマンを凡庸な歯車とは見ていなかった」という全体像へまで拡張されるとき、研究史上の正当な揺り戻しがオーバーシュートし、『エルサレムのアイヒマン』の累積的な人物描写を、未読者にほとんど逆向きに伝える危険がある。
私が問題にしたいのは、研究者個人の資質や動機ではない。
何を「表紙」に置くかによって、一冊の本の意味が変わってしまうことそのものである。
注
[^1]: David Cesarani, Eichmann: His Life and Crimes (London: Heinemann, 2004); Deborah E. Lipstadt, The Eichmann Trial (New York: Schocken Books, 2011); Bettina Stangneth, Eichmann Before Jerusalem: The Unexamined Life of a Mass Murderer, trans. Ruth Martin (New York: Alfred A. Knopf, 2014), esp. pp. 183–310. Stangnethはサッセン・インタビュー等を広範に利用し、裁判での自己呈示だけからアイヒマンを理解することの限界を示した。
[^2]: Hannah Arendt, Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil, rev. and enl. ed. (New York: Viking Press, 1964), p. 40. ウィーン時代について、There were two things he could do well, better than others: he could organize and he could negotiate と述べる箇所。
[^3]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, p. 252, pp. 287–288. p.252では本編末尾、Epilogue直前で the fearsome, word-and-thought-defying banality of evil と明記される。Postscriptのpp.287–288では、banalityを裁判で直面した事実水準の現象として説明し、そこから得られるものを lesson とし、それを現象の説明や理論とはしない。
[^4]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, pp. 25–27, 49, 94, 146–150, 252, 287–289. 本稿の「累積的人物像」は一つの引用ではなく、正常性、決まり文句、他者の立場から考える能力、命令・指令への依存、良心、thoughtlessness等の叙述を総合している。
[^5]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, p.252, pp.287–288. p.252でbanality of evilという語を用い、Postscriptではアイヒマンをイアーゴーやマクベスのような人物ではなく、個人的出世への勤勉さ以外に深い動機を見いだせない人物として論じ、問題を愚かさではなく sheer thoughtlessness に置く。
[^6]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, p. 25. アイヒマンの悪い良心は、大量の人間を死へ送る命令を with great zeal and the most meticulous care 遂行しなかった場合に生じただろう、と論じる箇所。
[^7]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, pp.146–150, esp. pp.146–148. ハンガリーからの移送停止をめぐるヒムラーとの緊張、not his fanaticism but his very conscience、総統の言葉の法的効力、ナチ法秩序のもとでの良心を論じる箇所。
[^8]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, p. 94. never made a decision on his own、命令で covered されることへの注意、directives への依存を述べ、その後の行為を「最初で最後」のイニシアティヴとして扱う箇所。
[^9]: 田野大輔「『関心領域』のヘスは無関心でも『凡庸』でもない ナチ研究者の警鐘」『朝日新聞デジタル』2024年6月6日18時00分、聞き手・平賀拓史。関連する議論として、田野大輔・小野寺拓也編著『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店、2023年)も参照。ただし、本稿で直接検討するのは朝日新聞記事の発言である。
[^10]: Christopher R. Browning, Ordinary Men: Reserve Police Battalion 101 and the Final Solution in Poland, rev. ed. (New York: Harper Perennial, 2017). 「ordinary」という分析と、加害者の責任追及が両立しうる比較対象として参照。
[^11]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, pp. 26–27. an average, "normal" person およびナチ体制内部では no exception という議論。ここでのnormalを普遍的・統計的平均性へ拡張しないことが重要である。
[^12]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, p. 60. neither was he as small as the defense wished him to be とする箇所。
[^13]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, p. 289. the whole cog theory is legally pointless。
[^14]: Ibid. all the cogs in the machinery, no matter how insignificant が法廷では行為者=人間として扱われるべきこと、および官僚制が人間を functionaries and mere cogs in the administrative machinery にするという政治学・社会科学的記述。
[^15]: Hannah Arendt, “Answer to Grafton,” draft, 1963, Hannah Arendt Papers, Manuscript Division, Library of Congress. 文書には Answer to Grafton / DRAFT と明記される。システム全体を見る観点では人間が大小のcogとして現れる一方、裁判では個人をfree agentとして見るという二水準の区別。
[^16]: Hannah Arendt, “Personal Responsibility under Dictatorship,” in Responsibility and Judgment, ed. Jerome Kohn (New York: Schocken Books, 2003), pp. 29–30. 官僚制における交換可能なcogsと、第三帝国の公的関与者をシステム上の歯車として記述する議論。
[^17]: Arendt, “Personal Responsibility under Dictatorship,” pp. 47–48. obedience よりも overall support for a common enterprise の観点から参加者の責任を考えるべきだとする箇所。
[^18]: Shmuel Lederman, “Ordinary Men and the Banality of Evil: Recovering the Conversation between Arendt and Browning,” Holocaust Studies 32, no. 2 (2026): 197–215, published online 6 June 2025. DOI: 10.1080/17504902.2025.2514351. Arendtを単純なcog-in-the-machine thesisへ還元する読解を批判する近年の重要な反対説として参照。
[^19]: Kei Hiruta, Hannah Arendt and Isaiah Berlin: Freedom, Politics and Humanity (Princeton: Princeton University Press, 2021), chap. 5, “Evil and Judgement,” pp.124–160, esp. p. 127. DOI: 10.23943/princeton/9780691182261.003.0005. small-cog theoryを退けながら、アイヒマンの行政的役割を cog-like とする区別。
[^20]: Benjamin A. Schupmann, “Thoughtlessness and Resentment: Determinism and Moral Responsibility in the Case of Adolf Eichmann,” Philosophy & Social Criticism 40, no. 2 (2014): 127–144. DOI: 10.1177/0191453713518323.
[^21]: David Luban, Powers of Judgment: Hannah Arendt’s Moral and Legal Philosophy (Cambridge: Cambridge University Press, 2026), chap. 2, “Did Arendt Get Eichmann Wrong?,” pp. 44–72. DOI: 10.1017/9781009647458.005. Stangnethの新史料を重要な反証候補として扱いながらも、Arendtのbanalityについての推測がなお可能な解釈であることを論じる。
[^22]: 森川輝一「政治思想研究における官僚制の不在、あるいは〈鉄の檻〉の呪縛――〈悪の凡庸さ〉問題を導きとして」『年報政治学』76巻1号(2025年)21–41頁。DOI: 10.7218/nenpouseijigaku.76.1_21。本文の能動的組織人像とPostscriptのmere-cogs論を異なる重みで処理する点を、本稿では解釈上の前景化の具体例として扱う。
[^23]: Arendt, Eichmann in Jerusalem, p.252, pp.287–289. 旧稿の「凡庸=代替可能」という表現は、アーレント自身の定義ではなく筆者による概念的拡張として訂正する。代替可能性それ自体は、“Personal Responsibility under Dictatorship,” pp. 29–30の官僚制論に明示される。
参考文献
- Arendt, Hannah. Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil. Revised and enlarged edition. New York: Viking Press, 1964.
- Arendt, Hannah. “Answer to Grafton.” Draft, 1963. Hannah Arendt Papers, Manuscript Division, Library of Congress.
- Arendt, Hannah. “Personal Responsibility under Dictatorship.” In Responsibility and Judgment, edited by Jerome Kohn, 17–48. New York: Schocken Books, 2003.
- Browning, Christopher R. Ordinary Men: Reserve Police Battalion 101 and the Final Solution in Poland. Revised edition. New York: Harper Perennial, 2017.
- Cesarani, David. Eichmann: His Life and Crimes. London: Heinemann, 2004.
- Hiruta, Kei. Hannah Arendt and Isaiah Berlin: Freedom, Politics and Humanity. Princeton: Princeton University Press, 2021.
- Lederman, Shmuel. “Ordinary Men and the Banality of Evil: Recovering the Conversation between Arendt and Browning.” Holocaust Studies 32, no. 2 (2026): 197–215. DOI: 10.1080/17504902.2025.2514351.
- Lipstadt, Deborah E. The Eichmann Trial. New York: Schocken Books, 2011.
- Luban, David. Powers of Judgment: Hannah Arendt’s Moral and Legal Philosophy. Cambridge: Cambridge University Press, 2026.
- Schupmann, Benjamin A. “Thoughtlessness and Resentment: Determinism and Moral Responsibility in the Case of Adolf Eichmann.” Philosophy & Social Criticism 40, no. 2 (2014): 127–144. DOI: 10.1177/0191453713518323.
- Stangneth, Bettina. Eichmann Before Jerusalem: The Unexamined Life of a Mass Murderer. Translated by Ruth Martin. New York: Alfred A. Knopf, 2014.
- アーレント、ハンナ/大久保和郎訳『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】』みすず書房、2017年。
- 田野大輔・小野寺拓也編著『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』大月書店、2023年。
- 田野大輔「『関心領域』のヘスは無関心でも『凡庸』でもない ナチ研究者の警鐘」『朝日新聞デジタル』2024年6月6日。
- 森川輝一「政治思想研究における官僚制の不在、あるいは〈鉄の檻〉の呪縛――〈悪の凡庸さ〉問題を導きとして」『年報政治学』76巻1号、2025年、21–41頁。DOI: 10.7218/nenpouseijigaku.76.1_21。
- 「関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html ↩︎
- (20241001_9時半頃追記) https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1316209990525304832
山本章子は、性犯罪者のニュースを見るたび、去勢しろと訴えている。その性犯罪の程度の軽重を問わずである。
https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1309249432718729219
https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1655827963051667457
https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1098509919689404416
https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1103641987775750144
https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1136948996205735941
https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1155139095191945221
https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1157186878069567489
https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1209648857069453313
さらに、むち打ち刑の提案もしている。
https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1808693049352204798 ↩︎ - (20241001_9時半頃追記) 私は、「レイプ犯を死刑に、インド州議会が法案可決 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News」(https://www.afpbb.com/articles/-/3537056) というニュースを引用し、「私は基本的に応報刑論は取らないので予防効果のない厳罰化には反対である。ところでレイプや殺人の防止には、重罰化は寄与しないというのが、10年前頃の常識だったように思うが(国連の統計等)。今はどう理解されているだろうか。 また、応報刑論は取らないまでも、しかし、死刑擁護論者のいうように「国家意思の表明機能」というものに正当性があると考えるならば、「法案は・・・女性に対する暴力の慢性化への怒りを示すもの」(添付記事)という表現は当に法の根拠、立法事実として適当だろう。 ただし、やはり斯様な抽象的な正義の表明が死刑を正当化できるかは疑問である。」と述べた(https://x.com/ri70402631/status/1831570549774102857 )。性犯罪者の更生プログラムのことを調べたり、実務家の先生に話を聞いていた私からすれば、山本章子のような立場には賛同し難い。もっとも、性犯罪者の科学的去勢の話は、議論され続けており(https://x.com/ri70402631/status/1798901664465977558 )、推進される可能性がないでもないし、一定の場合には、許されるべきかもしれない。ただ、山本章子のように、憎悪が主要因であり、応報が目的かのようにみえる去勢の導入等のアイデアは(「野獣死すべし」という言葉https://x.com/Ryudai_Jinsha/status/1707579172133257612 )反理性的であり、善とは程遠く思う。
また、前述したように、それが、統計的に被害を減らすかどうかも自明ではなかろう。「「性犯罪の再犯率が高い」と言われているのはまぼろしだ。結局、客観的なエビデンスを欠いた発想が問題なのである。」という弁護士で甲南大名誉教授(刑事法)の園田寿氏の記事もある(https://globe.asahi.com/article/15303946 )。さらに、日本弁護士連合会の資料では、拘禁率と犯罪発生率とを比較し、「拘禁率と犯罪発生率の間に相関関係はなく,高い拘禁率に犯罪を抑止する効果があるわけではない」と結論し、拘禁率と再犯率との比較においても、「より多くの人々を長期間にわたって拘禁することにより,その拘禁期間中になされる犯罪の発生が抑制されることは別として,出所後の再犯率を見た場合,拘禁率との相関関係はないことが理解できる」と結論している(行刑の理念と死刑 – 日本弁護士連合会 196頁以下。https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/jfba_info/organization/data/54th_keynote_report1_1.pdf )。 ↩︎ - 筑波大学人文社会系准教授(タイ政治、比較政治学)の外山文子も性犯罪に対して扇状的で感情的なポストを積み重ねている。量刑が軽すぎるという主張は共通しているが、彼女らの刑罰論は、予防機能を意識したものではなく、応報刑論に強く傾斜したものであるだろう。刑法の予防作用についての分析をどの程度行なっているかは不明であるが。
https://x.com/fwis2356/status/1856983482804965711
https://x.com/fwis2356/status/1857009954491605128
また、厳罰化を求めるポストは性犯罪のニュースに逐次つけており、それらのポストは山本章子が頻繁にリポストしている。
https://x.com/fwis2356/status/1862647459354484993 ↩︎ - *BBC|Shein: Inside the Chinese factories fuelling the company’s success https://www.bbc.com/news/articles/cdrylgvr77jo ↩︎
- *Refinery29|The Dark Secret Behind Your Favorite Makeup Products | Shady | Refinery29 – YouTube https://www.youtube.com/watch?v=IeR-h9C2fgc
*CNA Documentary|The Dark Secret Behind Your Shiny Makeup | Undercover Asia | CNA Documentary – YouTube https://www.youtube.com/watch?v=LS_CR7UwhRs
*NYT|Coke, Pepsi and Other U.S. Companies Face Wall Street Pressure Over Labor Abuses in India – The New York Times https://www.nytimes.com/2024/12/20/world/asia/wall-street-us-companies-india-sugar-labor-abuse.html
*NYT|5 Takeaways From an Investigation Into Hysterectomies in India’s Sugar Industry – The New York Times https://www.nytimes.com/2024/03/24/world/asia/india-sugar-sterilization-takeaways.html ↩︎ - 年少者に対する性犯罪について | blog rin life https://blog-rin-life.com/%e5%b9%b4%e5%b0%91%e8%80%85%e3%81%ab%e5%af%be%e3%81%99%e3%82%8b%e6%80%a7%e7%8a%af%e7%bd%aa%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/ ↩︎
- 令和2年(受)第1442号 投稿記事削除請求事件の裁判官草野耕一の補足意見を参照のこと(評釈もある:前科に関わる情報を SNS から削除することを求めた事例 )
「実名報道がなされることにより犯罪者やその家族が受けるであろう精神的ないしは経済的苦しみを想像することに快楽を見出す人の存在を指摘せねばならない。人間には他人の不幸に嗜虐的快楽を覚える心性があることは不幸な事実であり(わが国には、古来「隣りの不幸は蜜の味」と嘯くことを許容するサブカルチャーが存在していると説く社会科学者もいる。)、実名報道がインターネット上で拡散しやすいとすれば、その背景にはこのような人間の心性が少なからぬ役割を果たしているように思われる(この心性ないしはそれがもたらす快楽のことを社会科学の用語を使って、以下、「負の外的選好」といい、負の外的選好をもたらす実名報道の機能を、以下、「実名報道の外的選好機能」という。)。しかしながら、負の外的選好が、豊かで公正で寛容な社会の形成を妨げるものであることは明白であり、そうである以上、実名報道がもたらす負の外的選好をもってプライバシー侵害の可否をはかるうえでの比較衡量の対象となる社会的利益と考えることはできない(なお、実名報道の外的選好機能は国民の応報感情を充足させる限度において一定の社会的意義を有しているといえなくもないが、この点については、実名報道の制裁機能の項において既に斟酌されている。)」
「実名報道がもたらす第一の効用は、実名報道の制裁としての働きの中に求めることができる。実名報道に、一般予防、特別予防及び応報感情の充足という制裁に固有の効用があることは否定し難い事実であろう(この効用をもたらす実名報道の機能を、以下、「実名報道の制裁的機能」という。)。しかしながら、犯罪に対する制裁は国家が独占的に行うというのが我が国憲法秩序の下での基本原則であるから、実名報道の制裁的機能が生み出す効用を是認するとしても、その行使はあくまで司法権の発動によってなされる法律上の制裁に対して付加的な限度においてのみ許容されるべきものであろう。したがって、本事件のように、刑の執行が完了し、刑の言渡しの効力もなくなっている状況下において、実名報道の制裁的機能がもたらす効用をプライバシー侵害の可否をはかるうえでの比較衡量の対象となる社会的利益として評価する余地は全くないか、あるとしても僅少である。
↩︎ - (20240930_23時頃追記)歯車理論については、『エルサレムのアイヒマン』(ハンナ, アーレント, & 大久保和郎. (2017). エルサレムのアイヒマン: 悪の陳腐さについての報告. みすず書房.)の397頁以下参照。アーレントは(あらゆる犯罪人を歯車理論で免罪してしまうような)「見地に立脚してはいかなる裁判も不可能だ」(同書398頁)と述べるが、アーレントが問題にしているのは、まさに裁判技術、法技術の問題であろう。そのアイデア自体が心理学的、社会学的に妥当であるかどうかに結論は出ていない。また、本文で私は以下のように述べた。
─────そういう意味では、精神的な免罪を、全ての歴史や罪人に与えるべきなのだ。そして、こう言うべきだ。「あなたは違った時代や世界では免罪されているかもしれないが、私たちの現在の規範において、あなたに罰を与える」と、あるいは「あなたは確率論的分配において、根源的悪を犯した。あなたがこの世に居なくても誰かが同じような罪を犯したかもしれないが、しかし社会統制のために他の誰でもなくあなたに罰をあたえる」と。─────
これは戯画的に述べているように見えるかもしれないが、しかし、法技術や法哲学も進歩しており、一般にポストモダン的発想が浸透してきたのも、つい最近ではないか。歯車理論の妥当性が検証された上で、それが妥当とされた場合に、裁判にその論理を持ち込むことは、私は不可能ではないと思っている。 ↩︎ - (20241001_7時頃追記)『犯罪の証明なき有罪判決──23件の暗黒裁判──』(吉弘光男・宗岡嗣郎他)においても、不可知論的な思想を法学・刑事訴訟法学に持ち込むことに痛烈な批判がなされていた。
────青柳は、「歴史的事実の認定は客観的真実の探求とはちがう」ことを強調して「歴史的事実の認定は、客観的には常に蓋然性である」から、検察官の公訴事実も、鈴木判決や門田判決の認定事実も、「神の眼から見ればすべてが浅い人間の知恵に出る作り話であさえあろう」と述べて、その「いずれが正しいか絶対的に断定はできない」と帰結する。
しかし、これは、「正しさ」や「真実」が「絶対的に断定はできない」ことを強調する観念論であり、青柳らの戦前のインテリが共有した相対主義に固有の自殺的論理である。
ところが、もしこのような相対主義の前提に立って、検察官が有罪を主張し、裁判官が有罪を宣告できるのであれば、法的な正義が成り立つ基盤はなくなる。────(55頁)
さらに、この本は、青柳文雄のらの観念論を次のようにもいう。
────この立場は、戦前では新カント派の哲学が、戦後では論理実証主義の立場などが代表である。いずれの立場も、一言で「観念論」と総称しうるが、この観念論が戦前・戦後の刑法学・刑事訴訟法学に決定的な影響を与えた。────(55頁)
────旧制高騰高等学校に学んだ戦前のインテリが広く共有していた観念論的な相対主義的不可知論〔は〕・・・エトムント・フッサールが指摘したとおり(『論理学研究』1巻<立松弘考訳、みすず書房、1968年>131頁以下参照)、ナンセンスだというべきである。────(25頁)
アーレントも、相対主義的な態度を持ち込めば、「裁判の運営も歴史の運営の記述も不可能であることは明らか」と述べる(ハンナ, アーレント, & 大久保和郎. (2017). エルサレムのアイヒマン: 悪の陳腐さについての報告. みすず書房.406)。
しかし、これも、やはり時代が下り、リオタールの『ポストモダンの条件』以後の世界においては、もっと真剣に相対主義的記述の方法論を模索すべき方向に向かっているように思うし、尚且つそれは不可能ではないと考える。 ↩︎ - 「いま病む者は、いま悪とされている悪に襲われる。みずからに苦痛を与えているものによって、人に苦痛を与えようとする。だが時代が別ならば、善悪も別だ。」(フリードリヒ・ニーチェ 『ツァラトゥストラかく語りき』佐々木中訳、 河出文庫、2015年、62頁)
原文:Wer jetzt krank wird, den überfällt das Böse, das jetzt böse ist: wehe will er thun, mit dem, was ihm wehe thut. Aber es gab andre Zeiten und ein andres Böses und Gutes. (Friedrich Wilhelm Nietzsche, “Also sprach Zarathustra“, 1883-1885)
↩︎ - 牧畜の問題については、『いのちの食べかた』(独: Unser täglich Brot、英: Our Daily Bread)という、ドイツの映画(監督はニコラウス・ゲイハルター)が参考になる。 ↩︎
- 「関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html ↩︎

