思った事を書くだけ。
第1 経緯
事の発端は以下。
ゲーム『桃太郎電鉄』を息子と楽しい気持ちでやっていたのだが、女性の「いやーん」という声が、おならとかと一緒にボタンを押すと鳴る面白効果音として設定されている。全年齢対象、家庭用ゲームで。こんな発想や企画が週に50万本売れるエンタメで通る現状。怒りより何よりもう精神的ダメージがつらい
川上未映子 Mieko kawakami @mieko_kawakami
上に対し呉座氏ツイート
自分は若い頃さんざんミニスカートを売り物にして、おばさんになったらこれだもんな…
Yuichi Goza @goza_u1 川上氏の上記ツイートの引用ツイート
この呉座氏発言にはいろいろ反響があったが、本稿で取り上げるのは、川上氏が反応した以下の小山氏とのやりとり(周辺の文脈は割愛)。
ちなみに川上未映子がミニスカートを披露して話題になったのは芥川賞受賞時の新聞広告。文学賞の保守的な雰囲気にあえて際どいミニスカートで挑戦することで多様なジェンダー観を提示したわけですよね。それが後期においては真逆のスタンスに回った。こんなん批評の対象にならざるを得ないでしょう。
小山(狂) @akihiro_koyama
小山氏のツイートを引用し川上氏は以下のようにツイート
ミニスカートにたいする、哀れなほどの幻想と執着と妄想。っていうか「後期においては真逆のスタンス」ってなに? わたしこのあいだもミニスカートはいてNHKに出たけど
川上未映子 Mieko kawakami @mieko_kawakami
以上
第2 考察
性表現への嫌悪感・不快感というものは個人的・主観的・瞬間的で曖昧なものであるから、歴史的な自説との論理整合性というのは本質的でないように思う。しかし、矛盾があるように見えるにせよ、そこに嫌悪感が存することは事実なのであるから、なぜその物に嫌悪感を抱いたのかという差分を検討するべきと思う。その意味では、川上氏がどのような性への意識を持っているかを、服装から考察するというのも意味があるように思う。その考察が失当か否かはその先の議論。
その上で、少なくとも、”ミニスカートを履くこと”に当人の明示的な意味づけがされていない以上、それを川上氏の明示的な意思表示たるゲーム音声への苦言と並列では語りにくいように思える。小山氏のいう「文化的・歴史的状況」とは集団としての女性に対する文脈であり、それが川上氏に妥当するわけではない。私見としても、今日ミニスカートを履く女性が意識的にそこに何らかの意図を含ませていることは少ないと思える。つまり川上氏がミニスカートを履いたとしてそこから彼女の何らかの価値規範を推測するのは、なかなか難しいと思う(文化的・歴史的状況から一般的なミニスカートに意味付けをするとして、本件に関してはその意味づけを川上氏が否定したのだから、それから先は、川上氏の無意識下の考察に移行するか、もしくは川上氏が自分を偽っているという主張をしていくことになるか)。
また、私見としては、仮に性的魅力を誇示する女性が、性表現を咎める言説を表してもそれが、自己矛盾になるとは思わない。なぜなら、女性が性表現を糾弾するときには、性表現の形成過程に貫入する男性的視線を問題にしているのであって、女性自身が性的魅力を表す場合とは異なるからである。勿論そのような感覚の正当性は検討対象となるが、性表現の表現主体やその意味付けによって、その表現への評価・抱く感情が変わり得ることは極当然であろう。
やはり、川上氏によるゲーム音声への指摘の正当性を論評するに際し、川上氏の思想背景を探ることの方法論それ自体は正当であるとは思うが、このトピックについていえば、川上氏がミニスカートを履いているということが何か意義のある因子になるようには思えない。ミニスカートを履くことが特別であった時代なら話は別であるが、近時の日本で川上氏がミニスカートを履くことには、積極的に意味を与えることができないか、できるとしても技巧的・抽象的で不確実なものに留まると思う。
他方、もう一度翻って考えてみるに、確かに、性表現に苦言を呈す人物が、同時にミニスカートを履くことを明示的に拒絶していたりすれば、その人物の”性”に対する一定の価値規範を推測することができる。よって、ミニスカートを履くような人か否かを一つの評価要素とすること自体には意味があると考える。しかし、繰り返しになるがミニスカートを履くことがそれほど今日日本で特別であるようには思えない。本件について、川上氏がスカートを履くという事実からいえることは、”ゲーム音声の性表現に苦言を呈する川上氏は、ミニスカートを履くことを常に拒絶したりするような強度の性への忌避感を持つような人ではない”ということか。
女性からすれば、自分が発した言説に、ミニスカートを履いているからどうとか論評されるのは不快であろうけども、一般的な話として、ある人の着ているものからその思想背景を探るというのは方法論として正当だろう。ミニスカートを履いていることと、性表現への苦言とを関連させられた者が、その関連が失当だと思うならば、個別具体的、つまり当該トピックについては、その関連性の指摘は不当であるということを主張すればよい。大きな方法論自体を批判するべきではない。
小山氏「ちなみに川上未映子がミニスカートを披露して話題になったのは芥川賞受賞時の新聞広告。文学賞の保守的な雰囲気にあえて際どいミニスカートで挑戦することで多様なジェンダー観を提示したわけですよね。それが後期においては真逆のスタンスに回った。こんなん批評の対象にならざるを得ないでしょう。」
川上氏は、これに対し「ミニスカートにたいする、哀れなほどの幻想と執着と妄想」と述べる。これは違うだろう。一般的な話と、本件の具体的な話の混同がある。一般的にファッションから意味づけを探ることは正当であって、ミニスカートに対する意味づけも同様である。川上氏は”私の場合はミニスカートを履くことにそのような意味づけをしていなかった”というべきであったのではなかろうか。
川上氏ツイートの続く後段「『後期においては真逆のスタンス』ってなに? わたしこのあいだもミニスカートはいてNHKに出たけど」。この部分は正当であろう。なぜなら、小山氏(言及元は呉座氏)は、川上氏がミニスカートを履くことについて、一般的なミニスカートについての文化的歴史的状況から、勝手に推測で意味づけをしているのであって、川上氏はそこには異を唱えることができるからである。呉座氏が「自分は若い頃さんざんミニスカートを売り物にして、おばさんになったらこれだもんな…」というのは、川上氏の“過去のスタンス”と“現在のスタンス”を呉座氏において解釈し述べたものである。川上氏が自分の主張から、それに異を唱えるのは当然である。
まとめると、私は、方法論として”ミニスカートを履くこと”を俎上に上げること自体は擁護する。属人的な話として、勝手に“ミニスカートを履くこと”に誤った意味付けをされたならば、それは個別的に反証すれば良い。私も、呉座氏の「自分は若い頃さんざんミニスカートを売り物にして、おばさんになったらこれだもんな…」という主張は失当だと思うが、それは“ミニスカートを履くこと”を俎上に上げているからでも、一般的にミニスカートを履くことへ意味付けがされていることが誤っているからでもなく、個別具体的な川上氏についての意思解釈が不当だと思うからである。川上氏“ミニスカートを履くこと”を性表現と捉えることも、歳をとって転向があった捉えることも、“ミニスカートを履くこと”とゲーム音声への苦言の連関のさせ方も、いずれも飛躍がありすぎて、少なくとも呉座氏の主張からは正当性は見出せない。
なお、発端となった、川上氏の述べるゲーム音声への指摘が正当か否かについては、ここでは述べることはしないが、直感的には川上氏の指摘は過剰には感じた(もっとも、前述の通り、不快感嫌悪感なるものは主観的・個人的・瞬間的なものであるし、その感情自体は存するのだから、その感情の正当性を問うてもしょうがないのだけれど)。
若干付言する。「いやーん」とはどういう意味があるのだろうか。私が当該効果音を聞いて(音声は探して聞いてみた)想起したのは、漫画でスカートを捲られた女性の「いやーん」である。女性が性的なことをされて挙げる声と捉えていいのだろうか。たしかにそう考えていくと嫌悪感・不快感を持つのも頷ける。性風俗店、アダルトゲームの広告?客寄せ?等で「いやーん」という文字情報、音声情報が使用されていたら、それは性の商品化の一連の中の一部であるといえるだろう(善悪の話ではないが)。では、『桃太郎電鉄』の中での「いやーん」はどうなるか。やはり文脈によるか。私は桃鉄はしたことがないが、なにか失点?したとき等に「いやーん」と使うならば、それは一般的な「嫌」という言葉に近づくだろうか。そもそも「いやーん」が面白効果音として採用されたのは何故だろうか。やはりギャグ漫画等で、スカートを捲られる女性、あるいはバカ殿で性的”ちょっかい”を受ける女性の存在の歴史的連関が想起される。それでは性的な”煽り”とはおよそ無関係と思われる『桃鉄』の中の「いやーん」にはどのような役割があるのだろうか。それは性的モノ化、性的搾取、性の商品化なのであろうか。興味深い問題設定に思う。私は現時点ではよく分からない。