宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』感想
鑑賞後、家に帰ってすぐ本稿を書いている。
以下、ネタバレあり。
宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を見てきた。
私は、スタジオジブリ、就中宮崎駿作品は、『風立ちぬ』を除き殆ど見ており、ナウシカについては漫画版も愛読していた。
さらに、政治、言論空間も混沌とする昨今である。
ドキュメンタリーの中で、「これをみる子供の事を考えろ」みたいなことを言い、会社のホワイトボードには、「3.11から〇〇日」とか書いていた宮崎駿である。
そんな宮崎駿が『君たちはどう生きるか』という題で、引退作にもなろうかという作品が封切りされる。これは現代思想の一つの到達点となるのではないのかと予感し、観ないわけにはいかなかった。
ベンリィCL50で映画館に向かい、席に付き、スクリーンにスタジオジブリのロゴがデカデカと映し出された瞬間に既に込み上げるものがあった(世代的に、ジブリ作品は全てDVD等で観てきた。映画館で観るのは初めてだった)。
映画が終わると、明るくなるまで誰も立ち上がらなかった。
満足感と、巨大な、虚無感?。諦念?。色即是空空即是色っていう感じ?。あのラストシーンが何処か頭から離れない。ラストから何処か、、、。
さて。まず総論としては、まったく想定外の内容であった。
というのも、『君たちはどう生きるか』という題に、皆が想像していたものとは全く違っていたように思う。
使い古された表現を借りれば、「難解な作品だ」ということもできるのだろうか。
ひとつには、個人的には政治的なメタファーなどがあるだろうなと思っていたのだが、全くそんな安直なものはなかった(思えば、駿の作品に安直なメタファーなど従来から存在しなかったような気もする)。
しかし、圧巻であったと素直に言おうとも思う。前半のあの静けさは、かなり挑戦的な表現にも思う。絶妙なバランスに感じる。
そして、ジブリ的な世界に入ってきてからも、視聴者に丁寧な説明はない。広がる世界を前に緊張する。
それから、ラストの終わり方にもインパクトを受けた。あれには恐れ入った。観客が立ち上がれなかったの要因は、これが大きいようにも思う。
以下、各論を書き殴る。
映画館を後に、バイクで家に向かう途中で、なぜ感情の置き場が「難解」で、見方が難しいように感じたのかひとつ要素が思い当たった。
“敵”“悪者”が出てこないのである。
これは、面白い気付きかもしれない。ナウシカでもラピュタでも、もののけ姫でも、“敵”と戦いながらストーリーが進む。本作は違うのだ。
ポニョや、トトロでも“敵”は居ないではないかという反論がありそうだが、あれはあれで、違った作品の見方が提示されていたような気がする。本作ではそれがない。ただ続くVoyageという感じだろうか(そういう意味では千と千尋の神隠しに似ているところもあるか)。
ここまで駿が、素直に謎を謎のまま、視聴者に振りかけてきたのは初めてではないだろうか。安直な教訓が示されるわけでもなければ、わかりやすい政治的メッセージが秘められているわけでもなさそうである。
舞台は戦中である。眞人が最後、継承を拒否してのち、戦争は終わる。史実通りなら、日本が負けたことになる。眞人が継承していたなら、どうなっていたのだろうか。
そして、“世界”の管理者(?)は、血族で継承されねばならぬが、男系継承となっていたようにも思う。そこから一瞬、天皇制を想起したが、関係は分からぬ。
眞人は傷を「悪意の印」だと述べる。13の石を積み、世界を存続させる。「我を学ぶ者は死す」と書かれた門の先の墓は誰の墓だったのか。
“ワラワラ”は人として生まれる。あの“世界”が滅んだのちはどうなるのか。
火の少女とのボーイミーツガール的展開(?)。”ジブリの少女”を継承する魅力を纏う。眞人が火の少女を母と認識したのはいつなのだろうか。
作中に登場する吉野源三郎の本、『君たちはどう生きるか』には母のメッセージがあり、その日付は昭和13年とある。
この作品は、宮崎駿の自叙伝なんだろうか。主人公の境遇、時代とは一致する部分が多い。この点で、参考になる記事があった。吉野源三郎の孫、吉野太一郎の記事だ1。
吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の再解釈という捉え方もあるようだ。同書は読んでいないので読まなければ。Amazonで注文した。
いやはや、鑑賞中にも思考・解釈が追いつかなかったが、今に至っても整理が付かない。
しかし、よかったことは、上記のような解釈の領野を残しながらも、宮崎駿的ファンタジー描写は、しっかりと訴求力を持っていたことだ(この点については評価が割れそうな気もするが、私には訴求した)。胸のときめきがあった。
それから、先ほど、自叙伝なのだろうか、と疑問符を付けたが、自叙伝的”側面”があることは疑いがないだろう。眞人の「悪意」は、駿の「悪意」のはずだ。
やはり解釈すべきは、「これから、お前たちの世界をつくっていけ」と先代に告げられた眞人が、「悪意」を理由に、”世界”の継承を断り、もとの世界に戻る選択をしたことであろう。これは一つの諦念なのか。なんなのだろうか。ここの解釈が重要に思う。
いやはや、しかし、観てよかったと思う。未だ整理が付かぬが、一筋縄ではいかない作品である。しかし、同時にジブリ・駿作品らしい胸の高鳴りも持続している。上手く両立している。満足感がある。難解なところも高評価すべきに思う。これからも解釈していきたい。そんな作品だ。いい重みが心地よいが、、、。
満足感と、巨大な、虚無感?。諦念?。色即是空空即是色っていう感じ?。あのラストシーンがなにか忘れられない。
最後に、監督の言葉を、前掲記事から引用する(吉野・前掲注(1))。解釈の助けになろうと思う。
「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」
初号試写後の宮崎駿のコメント(吉野・前掲注(1))
「ずっと自分が避けてきたこと、自分のことをやるしかない」
(吉野・前掲注(1))
「陽気で明るくて前向きな少年像(の作品)は何本か作りましたけど、本当は違うんじゃないか。自分自身が実にうじうじとしていた人間だったから、少年っていうのは、もっと生臭い、いろんなものが渦巻いているのではないかという思いがずっとあった」
「僕らは葛藤の中で生きていくんだってこと、それをおおっぴらにしちゃおう。走るのも遅いし、人に言えない恥ずかしいことも内面にいっぱい抱えている、そういう主人公を作ってみようと思ったんです。身体を発揮して力いっぱい乗り越えていったとき、ようやくそういう問題を受け入れる自分ができあがるんじゃないか」
以上、取り敢えず筆を置く。解釈ができれば適宜更新していきたい。
他の方の感想・解釈
・村上隆(2023年7月16日 本節追加)
成程。「死の島」か。他にも色々参考になる。
・東浩紀(2023年7月16日 本節追加)
氏は、Twitterのサブスクでも感想を述べており2、ラストの解釈及びは参考になったし、東の出口戦略を求める言葉にも共感した。
注釈
- 吉野太一郎, 「「君たちはどう生きるか」宮崎駿監督が、新作映画について語っていたこと。そして吉野源三郎のこと」, 朝日新聞社(好書好日), https://book.asahi.com/article/14953353 (2023年7月14日) ↩︎
- 7月15日から16日にかけての一連のサブスク内でのtweet。
https://twitter.com/hazuma/status/1680109691169538048
https://twitter.com/hazuma/status/1680240393475207169 ↩︎