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一瞬のパラレルな永遠性(20241216)———ツァラトゥストラと私

投稿日:2024年12月16日 更新日:


一瞬のパラレルな永遠性(20241216)———ツァラトゥストラと私

あの時間解釈の展開は決定的だった。

illustrated by rin(copying of “Strolling along the Seashore” – Joaquín Sorolla y Bastida)

・「鬼束ちひろ『蛍』と時間性。そして作品解釈へ〜〜辻恵『放課後の少女たち』、『PERSON of INTEREST 犯罪予知ユニット』、『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』、『Carol (キャロル)』、『Thelma & Louise (テルマ&ルイーズ)』、『The Hours (めぐりあう時間たち)』〜〜」 | blog rin life https://blog-rin-life.com/%e9%ac%bc%e6%9d%9f%e3%81%a1%e3%81%b2%e3%82%8d%e3%80%8e%e8%9b%8d%e3%80%8f%e3%81%a8%e6%99%82%e9%96%93%e6%80%a7%e3%80%82%e3%81%9d%e3%81%97%e3%81%a6%e4%bd%9c%e5%93%81%e8%a7%a3%e9%87%88%e3%81%b8%e3%80%9c/

・感想『About Time (アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜)』 | blog rin life (https://blog-rin-life.com/%e6%84%9f%e6%83%b3%e3%80%8eabout-time-%e3%82%a2%e3%83%90%e3%82%a6%e3%83%88%e3%83%bb%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%a0%e3%80%9c%e6%84%9b%e3%81%8a%e3%81%97%e3%81%84%e6%99%82%e9%96%93%e3%81%ab%e3%81%a4/ )

 ここまで一瞬の永遠性についての思考は上記二つのブログに亘って展開してきた。ここでまた新たな記事を書く。この問題は、ニーチェの永劫回帰1、『Arrival (メッセージ)』(2016)とも関係する2。 
 思えば、私が超人になったのは、あの鬼束ちひろの『蛍』のブログで展開した時間解釈に到達してからであった。Person of interest で鬱状態になったのが、2021年の8-9月くらいで、そこから、理論が徐々にかたまって、上記ブログを上梓したのが、2023年10月5日。それまでは、もっと、誰かが死ぬまでに気持ちを伝えられないことの恐怖とかが強かった。しかし、一瞬が永遠なのだと思うようになってからは、あそこにあの時間が確かに存在し、その輝きは、今後何があっても、あなたが死んでも、あなたと決別しても、変わるわけではないし、誰も覚えている人がいなくても、刻まれた時間の存在は毀損されないと考えるに至り、そうして、今や未来についての執着がなくなった。
 この一瞬の永遠性のアイデアについては、よくある「精神的勝利法」とか「ポジティブシンキング」とは違って、実際に、自然科学的にも、論理的にも、ある時間の一瞬が存在しているという、時間の存在は肯定できる、ということが私の中で重要だったと思う。つまりは、私の考え方という次元ではなくて、世界の構造としても確からしい、ということができ、そのことがどうやら重要なのであった。
 だから、ここ一年くらいは(たった一年か。気が付かなかった)、このパラレルな一瞬の世界のアイデアにとどまっていられているのだと思う。そういう観点で、生きていても死んでいてもどちらでもいいやという感覚なのだ。君とのあの一瞬は、私の存在とは関係なく、永続しているから。



 ところで、「私の考え方という次元ではなくて、世界の構造としても確からしい、ということができ、そのことがどうやら重要なのであった」という感覚についてニーチェの永劫回帰についての理論的説明可能性について述べた以下の文章を読むと、ニーチェの理論について、それが単なる比喩ではなく、世界の構造との符号が、少なくともニーチェによっては要請されていると、そう思える。

「等しいものの永劫回帰」の理論的な構造 たんに「越えて進む」だけの直線的な意志に曲率をあたえ、力における「より多く」 を求めての未来への超出を、同時に、「あった」過去の反復でもあらしめる現在の行為、つまり過去を実らせ、そのことによってまた未来をうむような現在の「瞬間」は、一般に、「運命愛」 (amor fati) とよばれ、ニーチェのばあいも、「過去の救済」はこの運命愛として実現される。
 過去の救済という人間存在の実存的構造に存在論の次元で呼応し、それを支えると考えられる「存在」そのものの側の構造は、以下に述べる「等しいものの永劫回帰」であるが、キリスト教的な目的論的終末論的世界観を否定し、世界には最終の目的状態というものはないとしたこの回帰思想にも、しかし、いろいろな先例がある。
 たとえば、 大宇宙年(一万年)ごとにあらゆる星辰は、その運行を終え、ふたたび同じ運行を反復するが、そのさい、天空の星座が同一状態になると、地上でも個々微細な点にいたるまで同じことがくりかえされるとしたピュタゴラス派、世界がいくつかの段階を経れば、万物はその発端である火に化し (世界大火)、それから万物はふたたび同一経過をたどって反復するとしたストア派の教説が、すぐに想い起こされよう。
 また、すでに第2章の第一節の「ショーペンハウアーの史観とニーチェ」の項でかんたんにふれたように、ニーチェは、等しいものが永劫に回帰することの理論的な根拠らしいものも提出している。彼によれば、世界の力は増減しないで、ただもろもろの形態にかわるだけの一定不変の量である。力への意志を本質とする世界は、ある一定量の力の集合であり、一定量の力のあらゆる組み合わせ (つまり森羅万象)もむろん人間の計算能力をこえてはいるが——————限定された数をでることはない (世界、あるいは世界の力の有限性)。
 ところが、時間は後方(過去)へむかっても、前方(未来)へむかっても無限である。後方だけについても、これまですでに時間は無限に経過したのであるから、無限の時間のうちには可能なあらゆる力の組み合わせが、すでに無数回、実現されたはずである。要するに、世界の本質である力の数的総量の有限性と、世界の不断の生成変化の数的無限性 (時間の無限性)とから、「等しいものの永劫回帰」は論理的に帰結する、とされる。
世界自然の律動と歴史的=人間的生起 しかし、以上のいわゆる“論拠”は、ただちに、つぎのような反論をよぶ。つまり、「等しいもの」の「回帰」という以上は(等しくなければ回帰ではない)、等しいかどうかをたしかめる「記憶」が介入しなければならないが、しかし「記憶」がくわわればその分だけ等しくないし、また、もし記憶の介入がないとすれば、「等しいもの」の「回帰」ということは、まったく無意味ではないか、とする反論である3
 この反論、ことにその選択肢の後半は適切であり、おそらくはニーチェ自身もそれを認めるにやぶさかではあるまい。彼の回帰思想には、人間の企図や意志にかかわりなく、世界ではいずれにしてもすべてが等しいままに無限に反復する、という一種の宇宙論的な側面と、自己の現実の生がまったくそのままの姿で無限回にわたって反復することさえも肯定できるように、一瞬一瞬の生に無限の重さをこめ、充実して生きぬけ、という実践的・倫理的な要請の側面とがあり、これら二つの側面が、しばしば指摘されるように、それほどかんたんに調整のつくものでないことは、おそらくニーチェ自身も感じていたと思われるからであり、また、もしこの調整に失敗するならば、等しいものの回帰は人間的には「無意味」4になるからである。
 永遠に円環の運動をくりかえすディオニュソス的な世界そのものの律動と、そのつど目標をめざして努力する人間的な未来への意志とが、ひとことでいって、世界の必然的な自然的生起と、人間的現存在の自由な意欲にもとづく歴史的生起とが、いったいどのようにして結合されるかは、レーヴィットらが指摘したように、かなり困難な問題である。
 しかし、おそらくニーチェ自身がこの困難をある程度まで意識していた可能性は、彼が一方では、「存在の車輪は永劫にころがる」(『ツァラトゥストラ』第三部、「快癒者」 二)というように、永劫回帰をディオニュソス的な根源の「存在」それ自身にかかわる真理とし、いってみれば、一種の「存在の真理」(ハイデガー) とみなし、他方では、「万事につけて〝汝は、このことをいま一度、さらには無数回におよんで、意欲するか? と問うなら、その問いは最大の重しとなって君の行為のうえにかかるだろう!」、あるいは、等しいものの無限の反復をしか意欲しないためには、「君はどれほど君自身と生を愛好しなければならないことか」(「悦ばしい知識』三四一)というように、人間の意欲を区別して考えている点をみれば、かなり高いとすべきである。
 運命愛と「存在の車輪」 「存在の車輪」と人間の意欲(企投)は、以上のようにして、いちおう区別される。永劫回帰 (存在の車輪)の真理が、だれにとっても、また、いつでも真理として開示されるのではない(じっさい、永劫回帰は多くのひとにとって荒唐無稽である)ことは、人間と存在とが存在論的に区別され、人間が存在の真理にそむき、真理を隠蔽する可能性をもつことと符合している。十八歳の少年ニーチェは、すでに、「意志の自由と運命」と題する作文において、「一般に、われわれのなかにそれに対応する琴線がないなら、ある音がわれわれの心を動かすことなどできるであろうか?」と書いている。
 しかし、存在の真理からは区別される人間の、その人間的な意欲が、「これが生であったか?さらば! もう一度!」 (「ツァラトゥストラ』第三部、「幻影と謎について」 一)というように、等しいものの回帰を真実すすんで意欲することが、生涯でたったの一度でも、もしあるならば、そのとき彼のこの人間的な意欲(力への意志、生成)と存在の真理のあいだには一種の照応と共鳴が生じるであろう。人間の自由な意欲にもとづく歴史的生起と、世界=自然の律動(存在の車輪)とは、以上のようにして調整され、ひびきを合わせ、いわゆる「一者性への衝動」(本巻一九ページ以下参照)としてのディオニュソス的状態が生じるだろう。
 たんに「越えて進む」だけの直線的な意志に曲率をあたえ、力における「より多く」を求めての未来への超出(つまり生成)を、同時に「あった」過去の反復でもあらしめる現在の行為(“過去の救済”)は、さきに述べたように、「運命愛」とよばれるが、それはまた、「存在の車輪」のころがるひびきと律動を合わせた人間の存在様式であり、もっとも強い力への意志、「小児」の「我はあり」の境涯にほかならない(第Ⅲ部第6章『ツァラトゥストラ』の「三つの変化について」を参照)。
 「未来の創造にたずさわり、あったいっさいのものを――創造的に救済する」(『ツァラトゥストラ』第三部、「新旧の表について」三) 現在の行為、つまり将来的なものにたいして打ち開かれ、既在的なものを守りつつ、現在を形成的に耐えることは、同時にまた、回帰の真理にたいして身をひらくことである。
 未来的な可能性へむかっての自由で力強い意志の自己超出(企投)が、そのまま同時に、「あった」過去にもとづく事実性としての自己の存在の制約を、その深みにおいてうけとめ、主体化することである運命愛においては、「あった」既在的なものが、自由の領域である未来のほうから自己に贈られ到来してくる、というよりも、むしろ、このように到来し贈られてくることによって本来の自己が贈られ、生起するのだから、運命愛の瞬間は、人間が「汝がそれであるものとなれ!」という運命=存在の声に聴従した瞬間でもある。それは、「おお、わが魂よ……未来と過去とが汝におけるよりもっと近く同居するところがどこにあろうか?」(「ツァラトゥストラ』第三部、「大いなる憧憬について」といわれるように、過去と未来が円環をなし、連結する「瞬間」、つまり「大いなる正午」 のときである。
 ツァラトゥストラが、「静かに! 静かに! 世界はちょうど完全になったところではないか?」(「ツァラトゥストラ』第四部、「正午」)と語りかけたのは、以上のように、自由な人間的意欲の運動構造が円環にまねび、「存在の車輪」のひびきと律動をともにし、それに照応し、共鳴したディオニュソス的状態の一瞬であったろう。

(山崎庸佐「人類知的遺産54ニーチェ」,講談社,1978年,p.78-p.82)

  1. 私の場合は、時間が反復するとは考えていないが、しかし、アイデアの発想としては響きあうものがある。 ↩︎
  2. 他にも関係するものは多くある。
    ・「見えた 何が 永遠が」——————立花隆が『エーゲ 永遠回帰の海』で詩人の最後の言葉を引用していた。全部は読んでいない。ドキュメントのタイトルにもなっていた(Amazon.co.jp: 見えた 何が 永遠が ~立花隆 最後の旅~(NHKオンデマンド)を観る | Prime Video https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B8TLBBWR/ref=atv_dp_share_cu_r ) 
    ・中村元『インド人の思惟方法』によると、インド人は「時間を超越した国民性」を持っている(いた)という(ほんとうの法華経 (ちくま新書 1145) | 橋爪 大三郎, 植木 雅俊 |本 27頁)。 ↩︎
  3. rin注:私は「記憶」の有無は重要ではないと考える。誰も記憶していなくても、世界が回帰する(私であれば、一瞬がパラレルに永続する)という事実の認識さえあれば、それのみで精神的にも救済される。 ↩︎
  4. rin注:私は無意味とは思わない。私は「記憶」の有無は重要ではないと考える。誰も記憶していなくても、世界が回帰する(私であれば、一瞬がパラレルに永続する)という事実の認識さえあれば、それのみで精神的にも救済されると考える。 ↩︎

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