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『関心領域』の過大評価と田野大輔の論考への批判(?)

投稿日:2024年6月13日 更新日:

『関心領域』の過大評価と田野大輔の論考への批判(?)

『関心領域』観た。

以下ネタバレ配慮なし。走り書き。

事前情報は、朝日新聞の記事1と、家族のすすめ、のみ。
どちらも、「アーレントの先が示唆される」というようなことを述べていた。
(例の如く、前評判が高い作品は否定的に書いてしまう嫌いがあるのでご容赦を。)



感想。

想像の域を出なかった。
あれなら2時間真っ暗で、溶鉱炉の音だけ鳴らしていればよかったのではなかろうか(というのは言い過ぎだが)。
描写の不可能性と空虚の表現はダニエル・リベスキンドが20年以上前にベルリン・ユダヤ博物館でやった仕事を例にあげるまでもなく反復されつくされているし、またかよという感じが強かった。スピルバーグの『Saving Private Ryan』よろしく、不可能性に挑む段階に移行しても良いのでは? 単に作り手の怠惰にも思えてくる。
ホラー的な演出の上手さは感じた。

 良かった点を挙げれば、なかなかヘス一家になかなか共感し難いな、と実感できたことであろうか。アーレント的「悪の凡庸さ」の自分なりの解釈を内面化させている私は、もっとヘス一家に対する共感可能性に開かれているのではないかと考えていた。
 しかし、この映画をもって、そしてその共感の困難さをもって、ヘスやアイヒマンを「凡庸でない」とか表現するのは如何なものか。やはり凡庸なのであるというべきに思う。私たちが映画を見てヘス一家に異常性を感じるのは、私たちがそういう価値観の時代・世界に生きているからにすぎないだろう。

 私の祖母がテレビを見ながら、何かの犯罪者の罪の言い渡しの裁判のニュースを見て、「刑はそんだけかい」と言った。私は祖母に「じゃあ、どれくらいの罰なら満足なの」と聞いた。祖母は「そんなの知らんわ」と言った。
 私の現在住んでいる家と、以前住んでいた家の近くには刑務所がある。知人に刑務所で運動の指導をしている人がいる。
 刑務所の近くを車で通る時、我々は笑いながら世間話をして、刑務所に隣接するパン屋の息子とその家族の話をしている。近くにあるのが、死刑形場ならどうだろうか。

 X(旧ツイッター)を見ていると、私が講義を受けたことのある政治学者の先生の投稿が目に入った。彼女は性犯罪のニュースを引用し、「ちょんぎってしまえ」と短くコメントしていた。

 友人含め私たちは、安い服を来て、メイクをして、コーヒーを飲んでいる。原料は後進国の子供たちがしばしば命を落としながらかき集めていたりする。

 So, 悪は凡庸なのである。

 映画のレビューを見ていると、ヘス夫妻は家のすぐ隣で起きている虐殺に「無関心」だった、とする指摘も散見されますが、それは違うと思います。彼らは単に「無関心」だったわけではない。むしろ確信的に虐殺や搾取に加担して、利益を得ている。その上で、そうした犯罪から積極的に目を背け、遮断しているんです。

関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html

 それは定義の仕方の違いに過ぎないだろう。それをどう呼ぶかという問題だ。積極的な遮断も結局凡庸で、消極的な遮断との差は程度問題に過ぎない。消極的な遮断であれば凡庸で、積極的な遮断であれば凡庸でないというのは、正しい理解ではないだろうし、犯罪への関心の程度も程度問題に過ぎない(しかもグラデーションはかなり曖昧だろうし、解釈にも幅があるだろう)。

 また、そもそも我々は悪をどう判断しているのだろうか。
 小児性愛者をキモいと言ったり、近親性愛をキモいというのは、我々の現在の価値観だ。この犯罪者にはこの罰が相応しいと思うのは、我々の外的選好によるものだ。ユダヤ人を収容所に送る時の精神の働きと如何様な違いがあるだろう。
 構造は同じで、時代や社会が我々に与えている価値規範が異なるだけだろう。凡庸というのは、一定の時間や社会の範囲内で入れ替え可能な存在ということだ。社会の成員がある価値規範を届けられて、それに呼応して振る舞っているにすぎない。

 アイヒマンやヘスたち親衛隊幹部は、確信的にホロコーストを実行していました。アイヒマンはユダヤ人の強制移送を指揮し、その能力を認められて出世した。ヘスも映画の中で「具体的な指示はアイヒマンから受けるように」という指令を受けていました。アイヒマンを、上からの命令で無理やり動かされているだけの意思のない「歯車」ととらえることは、明らかな間違いです。
・・・
 一般に使われがちな「悪の凡庸さ」というのは、「アイヒマンのように普通の人間でも、巨大な悪に加担しうる」という自戒の意味ですよね。それ自体は、前提となるアイヒマン像が妥当とは言えないにしても、それほど有害な見方ではありません。
 でも、それを「アイヒマンのように巨大な悪に加担した人物もまた、普通の人間にすぎなかった」と順序を変えてしまうとどうでしょうか。アイヒマンの悪を免罪するような意味合いになってしまいます。
 この二つは似ているようで、根本的に違います。後者のような言い方をすると、アイヒマンの罪が矮小(わいしょう)化されかねない。アーレント自身も、アイヒマンを単なる「歯車」とする見方を否定し、その責任を厳しく問うています。

関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html

 

 これも小さな表現の違いにすぎないかもしれないが、私はむしろ「アイヒマンの悪」も歯車に過ぎないのだと整理するべきだと思う。「アイヒマンの悪」を歯車の一つと表現することに否定的な立場もあるようだが、その根拠が、そう表現すると「アイヒマンの悪を免罪するような意味合いになってしま」うからだとすると、陳腐で、大衆の合理的理解力を舐めた態度でなかろうか。冤罪するような意味合いになるからどうだというのだろうか。

 自然法則のように「悪」がこの世界に明快に存在し、法はそれを解き明かして、罪人を罰しているとでも考えているのだろうか。

 

 ヒヨコを生まれてすぐ選別し、オスはダンボールにどんどん重ねていき、下の方から圧死させていったりする。そのまま行けば問題なく生まれる胎児を堕胎したりする。オランウータンを檻の中に入れ皆で見物する。障害児だと検診でわかれば、あきらめたりする。沖縄人を博覧会に出品したりする。
 「人間」の範囲は採用する条件で異なる。見ている世界が異なるだけなのだ。そして、人為的に定められた人間の範囲を基準に「悪」が考察される。
 その上で、「悪」に対する遮断が行われることがある。「悪」を積極的に遮断する人は、「この罪人にはこの罰が相応しい」とか、女性の自律的な生のためならやむを得ないとか、だから生き物を食べる前にいただきますといって命に感謝するのだとか、そういって積極的に理由づけをして、「悪」を遮断する。消極的に遮断するというのは単に無知な人々のことだろうか。

 人はその時代・社会の価値観で動く。その条件下でどの人がどう振る舞うかというのは、いわば確率論的問題だ。アウシュビッツの塀の中にリンゴを隠したり、死刑廃止運動に参加したりする。環境保護活動や難民保護に人生を捧げたりする。そういう人もいるし、そうではなく、ただ、与えられた構造・社会の上で呑気に生きている人もいる。死刑執行人もいる。屠殺場の職員もいる。人工妊娠中絶をする医者もいる。ガザに爆弾を降らせる政府もある。もっと身近に殺人者も性犯罪者もいる。どれも皆、社会の歯車である。どれが歯車でどれが歯車でない悪かが、アプリオリに決まっている、あるいは第三者の審級が判断できるとの妄想は甚だおかしい。田野大輔の採用する倫理基準で歯車とそれでない悪とを峻別しようとするなら、それも良いが、それはただの定義と名付けの問題だろう。

 ある社会規範の下で、人間社会の一定割合は、積極的に悪も行うし、消極的に悪も行う。そういう意味で凡庸なのである。
 勿論、この私の見方からすれば、連続殺人犯も、レイプ犯も、ヒトラーも皆凡庸なのだ。尤も、これも定義と名付けの話にすぎないのだが。あらゆる悪は凡庸なのだと見るか(私)、凡庸な悪と凡庸でない悪があるのだと見るか、その違いだ(あるいはどこまでを歯車の働きとみるかの相違)。ただ、やはり疑問なのは、その凡庸さの裁定者は誰なのか、基準は何処にあるのかということだ。

 ヒトラーにも優しい心があった、彼も邪悪な意図に基づいてホロコーストを起こしたわけではない――。そういった言説は、免罪符として使われた「悪の凡庸さ」が行き着いた先ではないでしょうか。私が「悪の凡庸さ」をクリシェ(決まり文句)として用いることを批判しているのは、ホロコーストという未曽有の悪を矮小化することにつながりかねないからです。

関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html


 未曾有の悪は凡庸ではない(矮小でない)と考えることに驕りがあるのではなかろうか。私は未曾有の悪は凡庸なのだと考える。そしてその前提の下で必要なのは、あらゆる罪人が見えない免罪符の可能性をその手に握っているという認識だろう。それが無辜の人が握る免罪符として機能するか、それとも未曾有の悪人が握っている紙切れとみるかは、我々の採用する規範によって決せられる。
 そういう意味では、精神的な免罪を、全ての歴史や罪人に与えるべきなのだ。そして、こう言うべきだ。「あなたは違った時代や世界では免罪されているかもしれないが、私たちの現在の規範において、あなたに罰を与える」と、あるいは「あなたは確率論的分配において、根源的悪を犯した。あなたがこの世に居なくても誰かが同じような罪を犯したかもしれないが、しかし社会統制のために他の誰でもなくあなたに罰をあたえる」と。

 そういう態度がなく、善悪が絶対的に不変のものだと信じる処に、もしくは、社会で善悪とされているものを絶対視してそれに唯々諾々と従って積極的あるいは消極的に日常を生きる所に、またアウシュビッツも出現するのだ。あなたの家の裏にはアウシュビッツはないだろうか。「あなた」には、犯罪者も模範市民も含まれる。
 あなたが確信的に悪に参加しているか、消極的に悪に参加しているかは、将来の人類が解釈していくに過ぎない。解釈者の表現に過ぎない。そして確信的な悪の参加者は、凡そいつの時代も一定割合で私たちの社会に存在する。そこに凡庸さがある。我々が誰かを裁くのは、絶対的な悪の基準を参照しているのではなく、その時代・社会の悪の基準を参照しているのだ。そういった慎ましさを持たずに、絶対的な悪であるものとそうでないものを我々が峻別しているかのように思い込むこと、ここに誤謬と危険があるのだろう。

 アーレントは、ホロコーストの加害者を理解不能なモンスターとして見る危うさを指摘して、「悪の凡庸さ」の概念を提起した。しかし他方で、彼らを理解可能な対象として捉える、共感の対象にすることも大きな危険をはらんでいます。それは彼らを免罪することとそう遠くない。

「関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html

 ここが、私が田野氏に賛同できない一番のポイントだろう。私はどんな「悪」であろうと、それを共感の対象にすることからはじめるべきだと考えている。理解可能な対象として捉えることからはじめるべきだと考えている。方法論の違いかもしれないが、ここがネックなのかもしれない。

(20240614・午前8時頃追記)
田野曰く、「ヘスは妻や子どもを愛する良き父親として振る舞う一方で、家族の目が届かないところで買春をしているような描写もありました。自分の思い通りになる子どもには愛情を注ぐけれど、それ以外には非常に冷酷な、二面性のある人物として描かれています。」2とか、余りにも良い加減な感想じゃなかろうか。家庭にやさしくしながら買春をしているなんて、何処までもふつうのおっさんの描写だろう。これの何処が「非常に冷酷」で「二面性のある人物」なのか。田野氏が、買春をしている人全員を「冷酷」と評しているのなら理解できるが。この部分の記述だけでも、正直田野氏の理解の厳密さや態度を疑ってしまう。

 

 


  1. 「関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS660RYNS66UCVL016M.html ↩︎
  2. 同上 ↩︎

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