※以下は、思い立って書いた備忘録であり、他の考察の検討等を基礎にしたものではない。
さて、この問題を考えるにつき、先ず以下のような実験的仮説を立ててみる。すなわち、「性差別・性搾取・性的対象化」にあたるかどうかの判断材料とすべきは、「客体(表現物)の意思が『自らの性的魅力を資料とされること』に同意している(と推認できる)か否か」なのではないか、と。以下、いくつか例を立てて考えてみる。
まず初めに、「『性的感情を惹起する目的』で創出された表現物(ポルノグラフィ)に対しては、『性搾取だという批判』は生じない」という命題を真としてみる(キャサリン・マッキノンの主張(「ポルノグラフィは理論であり、レイプは実践である」)はここでは考えない)。また、「実在の女性身体への性的行為・猥褻行為も、同意の上の性行為においては倫理的に正当化される」という命題を真としてみる。
その上で、「視姦」というものを俎上に乗せてみよう。そうすると、「視姦(的行為)についても同意がある限定的場合においてのみ倫理的に正当化される」といえそうである(構想のための仮定として)。
では、客体者の不覚知の状況での視姦、はどう捉えるべきか。この場合、客体者が覚知しない限りにおいては、具体的な侵害の現象は生じていないと考えられる。このような客体者不覚知の視姦は、倫理的(もしくは法的)に非難されるものなのであろうか。
もちろん刑罰論における予防機能的な観点から、さらなる発展的な現実被害を防止するため、積極的に法的規制をかける発想もありえなくはないが、しかし、既発の具体的な侵害が認められない以上規制の肯定は困難だろう。法的規制の可能性については本稿では深掘りしないが、重要なのは、倫理的な観点からも評価は分かれる部分であろうことである。
さらに進んで考えてみると、客体(表現物)が非実在の創作物である場合には、およそ既発の具体的侵害というのは観念できない(具体的被害者の不存在という意味において)ともいえるだろう。
では、非実在青少年を性的搾取・性的対象化することに対し、非難の感情(およびそれの発露としての糾弾の言説)が生じるのは何故か。すなわち、「宇崎ちゃん」や「温泉むすめ」を性的搾取・性的対象化することに、一定の層が不快感、あるいは居心地の悪さ、を感じるのは何故なのか。その論拠を言語化することに挑戦したい。
思うにそれ(「宇崎ちゃん」や「温泉むすめ」を性的搾取・性的対象化することに、一定の層が不快感、あるいは居心地の悪さ、を感じるのは何故なのか)の原因については、「宇崎ちゃん」や「温泉むすめ」の「意思」について、「およそ彼女らは性的搾取・性的対象化にされることに同意を与えていないのではないか」という「想像」の存在が指摘できる、つまり「非実在青少年の観念的な想像上の意志」を一定の層がイマジナリーな領域において把握しており、その意志に反する視姦というものに対し不快感を表明している、と理解することができるのではないか。
以上のように考えてみるならば、少なくとも、「宇崎ちゃん」や「温泉むすめ」を性搾取・性的対象化することへの、不快感というのは、理由のある(叙述可能な)ものに思えるし、著者個人的にも共感できるところがある(ただし、不快感というものが相対的・主観的なものであるということに無自覚であってはならないということは、宮台真司等も繰り返し指摘するところであるし、加熱した活動家が忘れてしまいがちなことでもある)。
さてここで少し視点を変えてみる。ここまでで、「『宇崎ちゃん』や『温泉むすめ』を性搾取・性的対象化することは倫理的に悪なのか」という点については簡単に考えてみたが、それに対し、「『宇崎ちゃん』や『温泉むすめ』を広告として起用することそれ自体が「性差別・性搾取・性的対象化」に該当するのか」という点については、別の検討が必要である。
私は偶に、女性ファッション誌を閲覧することがある。例えばそこで、現実社会の写像としては不相応に過度なレベルで、「胸の大きさを強調した女性」や「スタイルの良い女性」、「セクシーな女性」のイメージが掲載されていたとする。あるいは、もっと具体的にいえば、「宇崎ちゃん」や「温泉むすめ」が女性用アイテムの広告として起用されていたとする。この場合に、これらの事象は、「性差別・性搾取・性的対象化」だと非難されるであろうかと考えると、おそらく否といえるのではないだろうか。非難の対象となるとしても、ルッキズムの観点からではないか。
これが否となる理由はおそらく、表現物の形成過程において、「対象者・対象キャラクターに対する男性的性欲望を購買力(や、それに類する行動)への動機として利用しようという意図」がイメージできないからであろう(ここでいう「男性的性欲望」というのは、女性に対する身勝手な性的欲望の発現、とでもいっておこうか(要検討、特に「身勝手」という点等について))。つまり、情報の受け手として「男性」が想定されていないことによって、「性差別・性搾取・性的対象化」という非難は向けられないことになる。もしこれが、男性向け雑誌、あるいは全国紙、公的プロモーション等での出来事だとすれば、一気にその評価は変容し、「性差別・性搾取・性的対象化」という非難が発現するであろう。
そう考えると、問題の中核に近いところにあるのは、「対象者・対象キャラクターに対する男性的性欲望を購買力(や、それに類する行動)への動機として利用しようという意図」が表現物の創作過程にイメージできるか否かであって、これがすなわち、表現物が「性差別・性搾取・性的対象化」にあたるのか、という問いに対峙するときの判断基準となるように思う。
これを具体的に見ると、「宇崎ちゃん」や「温泉むすめ」を広告として起用されているのをみるとき、「対象者・対象キャラクターに対する男性的性欲望を購買力(や、それに類する行動)への動機として利用しようという意図」が窺えてしまう(少なくとも一定の層にとっては)。よって、そこに嫌悪感・不快感が生じる。ゆえに、その事象を「性差別・性搾取・性的対象化」であると叙述したくなる。というような段階的構造が構想できる。
斯様な検討を前提とすれば、当該表現物が「性差別・性搾取・性的対象化」にあたるかどうかは、表現物の創作者の意図の推認を通して生じるところの、表現の受け手の嫌悪感・不快感と密接不可分であるといえるのではないか。
さて、急ではあるが、ここで筆を一旦置くことにする。
甚だ未成熟な考察であって中途であるが、論述した。思い立って書き殴ったものでしかない(性別二分論的な叙述、ジェンダーバイアス的叙述についても、簡易化のためにあえてそのままにしてある)が、備忘録的に残しておくことにする。また進展があれば加筆することにしよう。