痴漢事件への弁護士の向き合い方——痴漢と冤罪
法曹を志さなくなってから、「弁護士とは如何」などとはしばらく考えなくなっていたが、今日とある考察をしたので、素人の感想を書いておこうと思う。
弁護士経験を有する大学教員が、自身が担当した痴漢事件について話していた。
新人弁護士の頃、先生は、痴漢で逮捕された依頼人と話し、依頼人が痴漢をしていないと直感したらしい。依頼人の勤め先や、家族に聞いてみても、「彼が痴漢などするはずはない」との言葉を常に聞いたようだ(私は、そりゃそうだろうと思ったが)。
そして、依頼人が、最長の23日間の勾留に至り、その後も、検察官も悔しかったのか、不起訴ではなく処分保留とし、その影響で依頼人は、会社を移動、遂には解雇に至った(表向きの理由は別らしいが)のだと、依頼人に起きた出来事を悲劇的に語った。
また、先生は、別の痴漢事件についても語る。その依頼人は、敬虔なクリスチャンであったところ、クリスマスの日に教会に行く途中で痴漢の糾弾を受ける。女子高生からだ。
そこでも、先生は、冤罪だと直感した。話せば分かるらしい。さらに、クリスチャンが教会に行く途中で痴漢をするはずがなかろう、と(そうか?)。
依頼人は否認を続ける。そこで先生は、裁判官に必死に掛け合い、なんと、2-3%しか通らないといわれる、勾留却下を勝ち取った。
しかし、勾留は解けても、起訴の可能性は残る。検察官からは、「被害者がいるから、被害者に対し、金を払え」といわれる。友人の検察官にそのことを聞くと、「あーそれね。女子高生に多いんだけど、金目的でやるんだよ。相場は30万円くらい」だと。
先生は、強気に出て、金も払わず、結局、不起訴にした。
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どうだろうか。
大学2年の頃からフェミニズムに傾倒していた残滓の残る私としては、正直話を聞いていて不快に感じた。つまり、「いやいや、痴漢している奴がしらばっくれていることは多かろうし、それを見抜けるのか?、先生は証拠がないとかいうが、そもそも性犯罪は物証が残らない。被害者が泣き寝入りするしかなくなってしまう。安易に逮捕者の冤罪を直感するとは何事か」と。
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しかし、少し考えると考えが変わった。
そもそも、その依頼者が有罪か無罪かは、司法裁判所が決することであり、もとより、検察官や弁護士が決めることではない。
その前提で、検察官や弁護士はどのような姿勢で、依頼人(逮捕者)と向き合うべきなのか。そう考えるとやはり、検察官は、逮捕者が有罪であるという帰結に向かって証拠を集めて、法廷でもそう主張し、有罪を求めて動く。それに対して、弁護士は、依頼人の利益のために、(依頼人が無罪を主張するときは)無罪を求めて調査し、法廷でも弁論し、無罪を求めて動くべきなのである。
両者が、力を尽くして主張、立証し、それを受けて裁判所が結論を出すのである。
上記のように考えていけば、先生のように、依頼人の利益のために動くのは、弁護士の機能に則った、あるべき姿ではないか。プロに相応しい姿ではないか(ポーズではなく心の底から、依頼人が冤罪であると信じてしまうのはいかがなものかとは思うが、、、いや、そのくらいの方が依頼人にとってはよいのかもしれん)。
ちょうど、先日、ハーベイ・ワインスタインによる性的暴行を告発した2人の女性記者による回顧録を基にした映画『She Said (SHE SAID/シー・セッド その名を暴け)』を見ていたときに、NYT側からも尊敬を受けるワインスタイン側の弁護士が、おそらく信条では被害者女性に同情しながらも、法の範囲内で依頼人の利益になるように行動し、裏切るようなことはせず(若干あったが)、淡々と対応を続ける様を見て、「かっこいいな。プロだな」などと子供じみた感慨を受けていたところだ。
弁護士としての本分は何処にあるのか。何をすべきなのか。当人のイデオロギーに囚われることなく、原理原則に立ち返ることができる法曹。そういう存在が法システムを支えるのであろう。